この方は元々 京都市出身の方で京都でも長年生活されていたので、事務所のお越しになられたのは初めてであったが、京都のことはよくご存知で事務所に入られるなり、「この前の道は何度も通ったこともあり、地下鉄の駅から非常に懐かしく思いながら歩いてきました」とおっしゃった。
お仕事の関係で 家族4人で東京に移られ、新宿のマンションでの生活も10数年になられるという 今ではすっかり“東京人”になられている方である。
数年前に相続税申告前の親族での集まりの都度 京都に来られ、その時何度かご実家でお目にかかったことはあったし、ご自身が立ち上げられた事業のことでメールでは継続的にやり取りしていたが、直接会って話をしたのは5年ぶりであった。
この方に最近の京都の話をすると非常に懐かしがって聞き入っておられたし、私は息子2人が住んでいる東京の街中の様子や東京での生活感あふれる話を聞くと、滅多に話をする機会のない子供たちの生活ぶりが 会いもしていないのになんだか身近に感じられるというなんとも妙な気持ちになった。
仕事上のやり取りはこの数ヵ月の間 込み入った内容や検討項目が何件かあったので、会うことはなくても結構頻繁にメールや電話でやり取りをしていたし、法に照らして今後の対応を決めないといけないことについては、結構 長文をメールで細かな内容を確認するということも一度や二度ではなくたびたびあった。
メールも何度もしているうちに 顔を見ることはなくても不思議とメールなりのあうんの呼吸のようなものもできてきたし、元々面識があるので顔を見なくても特段 不自由なくここまでやってこれた。
こういった形での相談が半年近く続いていたので これからもこの形で決算を終了することができるかなと思っていたが、今日 立ち寄られ直接話をすると、これまで話していたことと結論は大きく変わらないが、直接 面前で話をすることからか生まれる納得感のようなものを得ることができたように思うし、これは私だけでなく相手さんも同じような感想を持たれたのではないかと思う。
コロナ以降 Webで画面を通しての面談は何度も経験しているが、画面越しでなく 直(じか)で合って話をするのは、そうでない場合と比較して大きな差があるなというのを今日に1時間半の面談で強く感じた。
じゃあ何が違うのか、OKという結論であればどんな形であっても同じなのかなと思っていたが、普段会うことのない人にこうして会えば 頻繁にあっている人よりも一層その違いがわかった。
頭の中ではなんとなく理解はできているが、この違いって一体何なんだろう? と考えてみたところ、納得や了解された時の“深さ”が違うと感じたし、不可 つまりダメだった時もそのダメさ加減が面前であるとよく伝わってくる。
これはお互い顔を突き合わせての会話の中では 単なる間の置き方はだけではなく、書類を見る時の眼光の鋭さであったり、ペンを持つ手の力の入り具合、それと時たま発せられるため息の大きさ こんなちょっとしたことの違いで、頭や心の中での納得度合いに差があるんだろうなと感じた。
今日の話の内容はさておき、面と向かって話をした1時間半は双方 納得・了解済みという 得心がいく段階のところまで話が進んだように感じた。
このブログで綴っている今日のようなことは、さすが古い人やなと思われたり、決して褒めてもらえないような感想を持つ人の方が圧倒的に多いと思うが、今日は勇気を出して自分で感じたことをそのままこうして文章にしてみた。
読んだ人の2割くらいの人が「そうやな、やっぱし顔を見て話をせんとな」と思っていただければ、今回のブログも無駄ではなかったのかも。
みなさんは8割の方ですか? それとも2割の方ですか?

