ただ 雪国育ちの私にとっては、これくらいの雪は大したことではなく「今日は屋根が白いな」という程度の感覚である。
今回は雪のことに触れようと思っていたところ、以前に雪は嫌な思い出ばかりではない ということをこのコーナーで綴ったことを覚えていたので過去の履歴を探してみるとなんとか見つかった。
あらためて読み返すと今の自分も励ましてくれるような内容だったので、今日はちょっと手を抜いてこの時の原文をそのまま張り付けておきます。
長くなって申し訳ありませんが、お時間のある方はお目通し下さい。
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【No711:雪の積もった故郷に元気づけられた(2020.12.20)】
先週の12/15(火)と12/16(水)は私の出身地である与謝野町を含む京都府北部へ毎月の定例業務ため訪問していたが、よりによってこの2日間はこの京都府北部の日本海側は雪が降っていて、車での移動中も時には横なぐりの雪が降りつけ、車のワイパーは休む暇もなく雪除けに大活躍であった。
京都市内でも北に位置する北区や左京区は雪も多少ちらつくももの、道路に積もるような降り方ではなかったが、私が仕事で雪国へ向かうこの日はまるで狙い撃ちしたかのような雪降りの天気であった。
今回の大雪は新潟県などでは高速道路で車が立ち往生したり、他にも積雪による被害が出ているので、雪が降ってよかったなんて言うのは、多少不謹慎かもしれないが、今回 仕事先で雪に遭って 少し心が和んだ部分がある。
昨冬は暖冬だったので雪を目にすることさえほとんどなかったので、車のスタッドレスタイヤもほとんど活躍することなく、あまり冬を感じることなく春を迎えてしまった。
日常生活を送る上では、暖冬の方がいいに決まっているが、先週の雪は久しぶりに故郷を思い出したというか、小さい頃はこんな中で、スキーやそり遊びをしたりをしたり、学校の休み時間には雪合戦で雪降りにも関わらず汗だくなったことを思い出した。
その日も顧問先(クリニック)へ行くと 院長先生が駐車場の雪かきをされており、雪国ならではの苦労を目の当たりにしたが、私なんかはいくら大変だといっても今 毎日の生活に“雪”があるわけでもなく、こういった雪国の方は私なんかの苦労とは比較にならない程 大変なんだろうなと この先生の額の汗を見ながら感じた。
雪の話をもう一つ。
あちこちで雪かきしている人を見て、子供の頃 雪の降る朝 いつもより早く起き、スコップで道路の雪かきをし、通学路を確保してくれていた父のことも久しぶりに思いだした。
雪の日の朝は目さまし時計ではなく、「ガガガガ―」という 雪かきをする父が持つスコップが道路をえぐるような音で目が覚めるのである。 それと、屋根に積もった雪が軒下に落ちてくる「ドーン」という地響きのような音、これが雪の日に目を覚ましてくれる音である。
仕事で行った故郷でたまたま雪を見て、両親を思い出したという何ともセンチな話であるが、その父は既に亡くなっており、母も施設に入っているので、私と話をするのを楽しみにしていた親と話をする機会さえ今はもうなく 寂しい限りである。
都会にいると、「温泉に行って雪景色を見ながら かに料理を」なんていう旅行のパンフレットを見ることもあるが、雪国育ちの者にとっては雪を見ながらお酒や料理を楽しむなんていう発想はなし、冬になれば雪というのは生活そのものという感じである。
だた、私も地元を離れて40年も経つと 段々 昔のことは忘れてしまっているが、仕事とはいえ こうして雪に出会うことは、少し大げさかもしれないが、何か忘れかけたものを思い出させてくれる そんな気持になった。
確かに雪道を運転するのも一苦労だったし、靴の中までも濡れてしまったが、故郷で雪に遭遇したことは、懐かしさだけでなく、なんとも言えないパワーをもらった気がした。
また、いろいろな意味で、「いくつになっても自分の原点を忘れてはならないぞ」といって励ましてくれているような気がした。
思わぬ雪であったが、やはり幼少期を過ごした所は、本人しか分からない不思議な力があるもんだなとも思った。
私の子供たちは3人とも京都を離れて暮らしているが、将来、京都で祇園祭や大文字、それに鴨川を見ると何か目に見えぬパワーをもらうようなことがあるのかもしれない。
いくつになっても故郷はいいものであり、温かさを感じられるありがたいものである。
今年はコロナの影響でお正月に里帰りできない人も多いと思うが、ほんの少しの時間でいいので、故郷のことを考えることは決して無駄なことではないと思うし、きっと自分の原点がそこにはあるような気がする。
今年も仕事するのは あと1週間。いいお正月を迎えられるように目の前にある やり残したことを何とかきりをつけたいと思っている年末の日曜日の夜である。
明日も雪の降る日本海方面へ出張ですので今日はこのへんで。
長くなって申し訳ありませんが、お時間のある方はお目通し下さい。
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【No711:雪の積もった故郷に元気づけられた(2020.12.20)】
先週の12/15(火)と12/16(水)は私の出身地である与謝野町を含む京都府北部へ毎月の定例業務ため訪問していたが、よりによってこの2日間はこの京都府北部の日本海側は雪が降っていて、車での移動中も時には横なぐりの雪が降りつけ、車のワイパーは休む暇もなく雪除けに大活躍であった。
京都市内でも北に位置する北区や左京区は雪も多少ちらつくももの、道路に積もるような降り方ではなかったが、私が仕事で雪国へ向かうこの日はまるで狙い撃ちしたかのような雪降りの天気であった。
今回の大雪は新潟県などでは高速道路で車が立ち往生したり、他にも積雪による被害が出ているので、雪が降ってよかったなんて言うのは、多少不謹慎かもしれないが、今回 仕事先で雪に遭って 少し心が和んだ部分がある。
昨冬は暖冬だったので雪を目にすることさえほとんどなかったので、車のスタッドレスタイヤもほとんど活躍することなく、あまり冬を感じることなく春を迎えてしまった。
日常生活を送る上では、暖冬の方がいいに決まっているが、先週の雪は久しぶりに故郷を思い出したというか、小さい頃はこんな中で、スキーやそり遊びをしたりをしたり、学校の休み時間には雪合戦で雪降りにも関わらず汗だくなったことを思い出した。
その日も顧問先(クリニック)へ行くと 院長先生が駐車場の雪かきをされており、雪国ならではの苦労を目の当たりにしたが、私なんかはいくら大変だといっても今 毎日の生活に“雪”があるわけでもなく、こういった雪国の方は私なんかの苦労とは比較にならない程 大変なんだろうなと この先生の額の汗を見ながら感じた。
雪の話をもう一つ。
あちこちで雪かきしている人を見て、子供の頃 雪の降る朝 いつもより早く起き、スコップで道路の雪かきをし、通学路を確保してくれていた父のことも久しぶりに思いだした。
雪の日の朝は目さまし時計ではなく、「ガガガガ―」という 雪かきをする父が持つスコップが道路をえぐるような音で目が覚めるのである。 それと、屋根に積もった雪が軒下に落ちてくる「ドーン」という地響きのような音、これが雪の日に目を覚ましてくれる音である。
仕事で行った故郷でたまたま雪を見て、両親を思い出したという何ともセンチな話であるが、その父は既に亡くなっており、母も施設に入っているので、私と話をするのを楽しみにしていた親と話をする機会さえ今はもうなく 寂しい限りである。
都会にいると、「温泉に行って雪景色を見ながら かに料理を」なんていう旅行のパンフレットを見ることもあるが、雪国育ちの者にとっては雪を見ながらお酒や料理を楽しむなんていう発想はなし、冬になれば雪というのは生活そのものという感じである。
だた、私も地元を離れて40年も経つと 段々 昔のことは忘れてしまっているが、仕事とはいえ こうして雪に出会うことは、少し大げさかもしれないが、何か忘れかけたものを思い出させてくれる そんな気持になった。
確かに雪道を運転するのも一苦労だったし、靴の中までも濡れてしまったが、故郷で雪に遭遇したことは、懐かしさだけでなく、なんとも言えないパワーをもらった気がした。
また、いろいろな意味で、「いくつになっても自分の原点を忘れてはならないぞ」といって励ましてくれているような気がした。
思わぬ雪であったが、やはり幼少期を過ごした所は、本人しか分からない不思議な力があるもんだなとも思った。
私の子供たちは3人とも京都を離れて暮らしているが、将来、京都で祇園祭や大文字、それに鴨川を見ると何か目に見えぬパワーをもらうようなことがあるのかもしれない。
いくつになっても故郷はいいものであり、温かさを感じられるありがたいものである。
今年はコロナの影響でお正月に里帰りできない人も多いと思うが、ほんの少しの時間でいいので、故郷のことを考えることは決して無駄なことではないと思うし、きっと自分の原点がそこにはあるような気がする。
今年も仕事するのは あと1週間。いいお正月を迎えられるように目の前にある やり残したことを何とかきりをつけたいと思っている年末の日曜日の夜である。
明日も雪の降る日本海方面へ出張ですので今日はこのへんで。