身内の葬儀とか法要はたびたび遭遇するものではないが、葬儀、四十九日、納骨、一周忌(この間に初盆もある)と続く一連の流れは10年前に父が亡くなりその時の記憶も残っている中で、同じような流れの一周忌であった。
事前にわかってはいたが、お坊さんのお経は実家の仏壇の前、そして墓に移動して墓前で、そして最後はお寺の本堂で 車で10分程度の移動とはいえ、お坊さんはもとより我々親族も最後の食事をする場所も含めると4カ所を巡ることになり、しかもお墓とお寺は石段もあり結構体力のいることではあった。
ただ、91歳でなくなった母のことを思い出すにはお経の間、特にお経の意味がわかるわけでもないので、母の遺影を横目で見て母のことを思い出しながら,3回のお経が終わるのを目を閉じながら待っていた(お坊さんそしておかあはん 少し不謹慎になってしまいすみません)。
コロナ禍ではお葬式はもとよりこういった儀式も簡略化されたり、実施されなっかったケースもあっただろうが、昨日こうして一周忌の法要に参列してみて、こういった仏事の意義はあるのだなとあらためて思った。
生前 看病や介護状態にある時は病院や施設に入っているとはいうものの 多少なりともどうしているのかなと離れて暮らす母のことを考える機会もあったが、いざ 亡くなってしまうと毎日が慌ただしい現代社会においてはこういった節目の時でないと過去を振り返る機会もほとんどないし、そういう意味においては一周忌、3回忌、7回忌 という節目の法要は個人を忍ぶことだけでなく、少し大げさかもしれないが自分自身の人生を振り返る機会にもなるなとも思った。
会食の後、兄と兄嫁が探し出した、実家にしまい込んであった古いアルバムを見せてくれたが、その中の1枚に60年以上も前の写真の添え書きに「増生 3ヵ月になる」と書かれており、そこに写っている3人目の子供を抱きかかえている母の姿は、若いのはもちろんのこと私にはなんとも誇らしいそうな顔に見えた。
冠婚葬祭は費用も掛かるし、時間の調整という点でも大変な部分はあるが、忙しい中でなかなか顧みることにない部分を振り返るという意味ではその意義を感じた昨日の法要であった。
私が結婚して10年目くらいの時に後輩の結婚式に出席して、初々しい新婚の2人を見て、その帰りには「あんな時もあったな? 今の俺の態度では夫婦や家族の生活はやばいな」なんて反省したことも幾度となくあったが、これも多少意味合いは違うが結婚式に出席する意義の一つであるなと当時考えていたことを思い出した。
話はごろっと変わるが、
先週このコーナーで綴ったように自民党の総裁選と立憲民主党の代表選挙は、まさに立候補ラッシュであり、締め切られていない自民党の方はまだもう少し立候補報道が続くのであろう。
今回の両党の選挙は正直 すごく関心があるわけではないが、政治不信、そして若者だけでなく国民全体に広がる政治無関心の状態を打破する一つのきっかけになればと思っている。
私は日本をよくするのは政治家ではなく国民である と常々思っているので、多少なりとも先の見通せる国になるためには我々も関心を寄せる必要があるのであろう。
9月ももう少しで半ばに差し掛かろうとしているというのにまだまだ暑い日が続く中、今日の新聞広告のある料亭のおせち料理の紹介とその申し込みが載っていたが、「35度もある中でおせちかよ」、「早けりゃいいもんでもないと思うんだけどな?」と驚きを通り越して、この商戦の戦略は一体どこにあるのか?となんて考えたりもした。
みなさん いくら何でもちょっと早すぎると思いません?