私が幼い頃はもちろん、学生時代や社会人になりたての頃には使っていなかったように思うので たぶんここ10〜20年くらい前から使われだした言葉ではないのかと思う。
この言葉を使っている多くの人を敵にまわすような今日のタイトルって結構勇気がいったのだが、批判されるのを覚悟で今日は思っていることを綴ることにする。
実は私自身はこの言葉は一度たりとも使ったことがないので単純に違和感を感じるということであるが、かと言ってこの言葉を使っている人のことを特別視したり、嫌悪感を抱くことは全くないので誤解のないように。
私自身の考えなので人に押し付けるつもりもないが、私が使えない、あるいは使ったことがないのは、自分にご褒美がもらえるようなことはほとんどできていないし、自分を褒めるような大それた気持ちになることが まずないということに起因しているのかもしれない。
よく考えてみると私自身“挫折”と“達成感”の繰り返しなような人生で、当然のことながら達成感を得られたことなんて言うのはほんの一握りあるかないかで、ほとんどの場合 味わってきたのは挫折感であろう。
「あの時 ああすればよかった」とか「なんでもっと頑張れんかったんやろ」という場面がいくつも頭に浮かんでくるし、こんなことを考えていると当然のことながら悔しさが込み上げてくることがないわけではないが、不思議と尾を引かないあっさりした気持ちになっている自分にあらためて気づく。
これは「やっぱし実力不足やな」、「手を抜いてたんで、当然の結果か」と自らの努力の足りなさや実力不足を認めざるを得ないことの方が多いからなのであろう。
私は“運”という言葉もあまり好きな方ではないが、うまくいかなかったときは「運がなかったかな」言って自分を慰めるなが、“運”というのはある意味 気持ちを落ち着かせる時に都合のいい言葉である。
「自分へのご褒美」という言葉って、欲しい物を買ったり、食べたいものを食べたりするときに使われるケースが多いように思うが、私は欲しいものは欲しい時に買うが、高くて買えないものはきっぱりとあきらめがつくような性格なので背伸びしてまで買おうと思ったことは一度たりともない。そういう意味では結構あきらめも早いのかもしれない。
事業をしていた私の父の口癖は「お金がなかったら買わんでもええ、そんなことで死んだりせえへん」だった。
父は人生の中で銀行にはもちろん 他人にも一度たりともお金を借りたことがないまま生涯を終えたが、少しはその血が私の中に流れているのかもしれない。でも、私はお金を借りたこともあるし、住宅ローンもの残っていますがね・・。
なんだか妙な話になってしまったが、たわいもない奴の独り言と思って聞き流してもらっても結構です。
自分を褒める言葉で誰しもが納得がいくのは、(若い人は知らないだろうが)今から27年前の1996年のアトランタ五輪女子マラソンで炎天下の中で銅メダルを獲得した有森裕子選手がゴールの後、汗まみれの姿で「初めて自分で自分をほめたいと思います」と発した言葉であろう。
そういう意味でまだまだ褒められない自分がいるからこそ、毎朝起きて、仕事に向かわせてくれているのかもしれない。
がんばってこの車に乗りたいとか、○○へ旅行がしたい というような具体的な目標がある方がもっと励みになるのかも? でも車にあまり興味がないしな。
読みたい本を読んで、飲みたいお酒を飲んで、食べたいものを食べる これが一番の楽しみかな?
でもよくよく考えると これこそ結構贅沢な話かも?