というのも仕事はもちろん、仕事以外のことであっても あれもしなければならない、これも片づけなければいけないと 時間がいくらあってもできないことが多すぎるし、これって私だけでなく多くの人が日頃から感じていることではないのかなと思う。
そりゃ 目の前に与えられたものを全てこなして解決できるスーパーマンのような人間ならこういった状況も乗り越えられるのであろうが、普通の人間ならここまでしかできないと限界を感じて当然であろう。
もちろん何もせずに放り投げるようでは話にならないが、物事を進めるにあたっては、いろいろな局面において取捨選択する必要があるということである。
これだけ情報が溢れ、世の中のニーズも多様化する中、この必要なものと必要でないものとを振り分ける作業の上手下手って、場面によってはその人の評価の違いになって表れることだってある。
古くは何か案内がくるというのは封書かはがきであったが、私が仕事をしだしたころからそこにFAXというものが加わり、セミナーの案内や業務上のお客様との文書のやり取りもFAXが多くの場面で使われるようになってきた。
そして今はメールや主に個人間のやり取りではLAINの利用が大部分を占めるようになってきた。
従来は読みたいものや必要なものを当事者が主体的に動いて自ら取り寄せていたが、今ではこちらの意思に関係なく、さまざまな情報がいたるところから、いろいろな手段で舞い込んでくる。
この先、送られてくる情報をまともに相手していてはいけないので、さあ どこでバサッと切るのかということも重要になってくる。
最近、事務所内だけでなく、外部のビジネスマンを見ていてもこの取捨選択、つまり 必要でないものを省いたり、除いたりする能力の高い人ほど、必要なものに集中していい仕事をしているなと思う時がある。
よく「時間の使い方がうまい人」って言われるが、これは単に時計を見て時間を区切っているだけでなく、必要、不必要の判断が瞬時でできる能力のある人のことをいうのであるということがわかってきた。
今回 なぜこんなことを急に言い出したのかというと、仕事が溜まったり、積まれたりするのは、たくさんの業務の舞い込んでくるということでは決して悪いことではないが、やはりそれを選別したり、判断したりする能力の違いによって、出来上がりの仕事やそのスピードに差が出てくるであろうと考えてあからである。
言い換えれば、能力を高めることでいい仕事ができ、また仕事以外の時間もうまく作れる人間になれるということであるが、これは他力本願ではなく、あくまで自分の力でもってということである
今日は思っていることや理想としていることをただひたすら綴ってみたが、終わりが近づいて もう一度読み返してみると、なんだか自分はできていないが、何とかやってみたいことをただ単に願望のように綴った文章になってしまったような気がする。
企業経営の本では 選択と集中 という言葉も目にするので、この言葉も同じような意味かなとも考えたが、これは企業の経営手法・手段の話で、私が今回話した 取捨選択 とは大きく違うと思われる。
いずれにしても必要なものを見極める力で明暗が決まってしまう世の中になっていっていることには間違いないし、ことが進まないのは処理する能力がないというだけではなく、見極める能力が足りないというところにも行き着いてしまう。
何事においても、いろいろな意味での能力が必要とされ、その差が成果物の差になるんだな と最後は妙な形で納得してしまった。
今日は少しひんやりもするが、こういうのが本当の秋っていう感じかなと思いながら、少し厚着で過ごす休日である。
毎年思うが秋ってなんだか物悲しいですよね。