ぽぽたん(うちのワンちゃん)との散歩で7時過ぎから宝が池まで行ったが、その頃はまだ空を雲が覆っていたので汗だくになる前に帰ってこれた。
日経新聞に1ヶ月連載の[私の履歴書]というコーナーがあり、今月は建築家 伊東豊雄という人の連載であるが残念ながら私はこの人のことをほとんど知らない。
ただ、今日の書き出しには、「子ども時代の原風景がその後の人生や仕事にどれほど影響するのだろうか」と綴られていたので、子ども時代とはいつ頃のことを指すのかなと思いつつも この言葉にすぐさま反応し、ひとまず私自身の幼稚園から小学校に入って間もない頃のことに想いを馳せ、今日のこのブログをまとめてみようと思った。
私の実家は今では少なくなったが当時はまだまだ地域産業の柱であり、当時から現在に至るまで和装業界の中でも全国1位のシェアを誇る丹後ちりめんの一織屋であった。
今でこそ少なくなったが三世代同居の7人家族で、食事は今どきの背の高いテーブルではなく、和室で座布団を敷いて座って食べる形式であり、人数が多いので祖母が食事の時だけ追加でテーブルを出した後、座布団を並べ、箸を決まった場所に置いていくというのが3人兄弟の末っ子であった私は役目であった。
夏は近くの畑でとれたトマト、なす、きゅうりやじゃがいもの料理は毎日のように食卓に並んでいた。ただ、家でも作っていたスイカだけは好きになれず、成人になるまでほとんど口にすることはなかったが、今は外食の時に出てくる一口サイズ位なら何とか食べることができるようになった。
父はちりめんを織る“機屋(はたや)”であったので、朝は6時半頃から織機を動かし、夜は6時半ごろまでずっと工場の中で仕事をしていたが、クーラーのない時代だったので、上はちじみのランニングシャツに下はステテコという、40代以下の人は分からないだろうが、今になって思えば まるでドリフの劇にでも出てきそうな格好であった。
あと私の部屋はこの工場の真上にあり その振動で目が覚めたので、目覚まし時計は高校生になるくらいまでは使ったことがなかった。
祖母は洗濯や掃除など家のことを、母も機を織る合間に食事の用意をしていたし、祖父も出来上がった製品(反物・たんもの)から糸が飛び出しているものを探し出し、はさみで切る「ふしとり」という仕事をしていたので、4人の大人が家の中でそれぞれの何らかの仕事をしていたという、今の社会ではなかなか見られなくなったまさしく家内工業そのものであった。
こんな状況の中で育ったので、ある意味 自由で、「勉強しなさい」なんて言われた記憶は一度もなく、遊びに行ったら晩御飯までに帰ることだけを気にしながら山や川で本当に思いっきり遊んでいた。
ある時 私の帰りが遅く、家族みんなで私を探していて、「ますお〜」という大きな声がするのが聞こえたが、きつく怒られるのがわかっていたのでうつむき加減で小さくなって声のする方に出て行ったことも今日 何十年ぶりかに思い出した。
最初の「子ども時代の原風景がその後の人生や仕事にどれほど影響するのだろうか」というのを自分に照らし合わせてみると、子供は幼少期はこれでもかというくらい一生懸命遊んでいた。そして大人は週6日間一生懸命仕事をしていたし、父がよく応接でいろいろな人と商談していたのを横で意味も分からぬまま見聞きしていたが、父が誰とでも分け隔てなく気楽に話をするという姿は今でも印象に残っている。もしかすると自分の中にもそういったものが何らかの形で影響しているのかなと思うこともある。
若い頃はこんなことを考えることもなかったし、今の30代以下の人も「若い頃は」なんて頭に思い浮かべる機会は少ないと思うが、それ以上の人は良い思い出ばかりでないかもしれないが、それぞれ“子ども時代の原風景”の思い出があるのではないでしょうか。
でも この頃の登場人物の多くの人は今やこの世にはいないんだななんてことも考えてたりもしていた。
我が国もこの50年くらいで大きく進歩を遂げたが、やはり「忘れてはならないものはいつになってもあるのでは」なんて思いながら これから1ヵ月続く伊東豊雄さんの[私の履歴書]を毎朝楽しみにしながら追っていくことにする。