2022年04月03日

No.773:“一太郎”の思い出

 私の一日は毎朝6時に朝刊を自宅のポストに取りに行き、2つの朝刊のうち まず日経新聞の最終ページにある「私の履歴書」に目を通すとこから始まる。
 ご存知の方も多いと思うが、この「私の履歴書」はその時々の話題の人や著名人、更には過去において名を馳せた人が生まれてから現在に至るまでを自分で振り返りながら1ヵ月に渡って綴るというコーナーである。
 この私の履歴書で先月 久しぶりに“一太郎”という活字を目にし、懐かしさもあって、毎朝わくわくしながらこの連載を読んでいた。
 登場人物の浮川和宣氏ご本人のことに触れる前にまず一太郎の思い出について話しておく。

 私と一太郎との出会いは、私が22歳で社会人になり、結構転職者の多い税理士業界では珍しく新卒者としていきなり身を置いた事務所でのことである。
 その事務所は当時では従業員が20人を超えるという京都では比較的大きな事務所ではあったが、今ではどこにでもあるパソコンなるものはなかったし、現実的にはこの頃はまだパソコンが世に出回っていなかったという時代であった。
 税理士事務所での業務も今のようにいきなりデータ入力するのではなく、まずは自分の机の上でペンと電卓を使いながら仕訳作業をし、それが終わるとやっとコンピューター室(当時は機械室と呼んでいた)の中で小型テレビのような画面に向かって入力作業を行っていた。
 決算書や申告書は手書きであったが、役所に提出する特定の書類だけはワープロの専門学校を出た女性スタッフに入力依頼する形をとっていた。
 こんな状態が何年続いたかは覚えていないが、ある時 各人の机の上に1人1台ずつパソコンがあてがわれるようになり、多分 この頃に一太郎が我々の前に登場したと記憶している。
 定型のひな形がある議事録や契約書は自分で入力するように仕事のスタイルが変わっていったので、周りの人たちから取り残されないようにと必死で一太郎と当時の表計算ソフト“ロータス123”の入力や操作に取り組んだのを覚えている。
 その一太郎も今や役目をすっかりワード(Word)[ロータス123はエクセル(Excel)]にとって代わられているが、当時は一太郎が使えなというだけで仕事ができない奴と言われそうなくらい一世を風靡した。

 今回、私の履歴書を読んで、「この一太郎の会社って、そういえば徳島に本社があったな」というくらいのことは思い出したが、私の履歴書で、創業者である浮川和宣氏が30歳で脱サラし、奥さんと二人で奥さんの実家の応接室を本社として立ち上げたことなどは今回初めて知った。
 ただ 一太郎を開発し、全国くまなく行き渡るまで販売した結果、上場まで果たしたジャストシステムという会社も先述のワードの浸透の波をもろにかぶり、業績は傾き、社長も長くいっしょに仕事をしてきた福良伴昭氏に譲り、その後 浮川氏はジャストシステムを去ることになった。
 一太郎を販売していたジャストシステムという会社はなくなったのかなと心配していたが、その後 キーエンスの傘下に入ったとはいえ、販売する商品も変わり、しっかり方向転換を図り業績を伸ばしている。
 一太郎の産みの親である浮川氏は60歳になって、再び奥さんと新しい会社(MetaMoJi)を立ち上げ、尚 発展途上の最中という凄まじいバイタリティーの持ち主であり、今や少し話題の人のようである。

 月も変わり4月から始まったコマツ(小松製作所)の元社長である野路國夫氏の「私の履歴書」もまだ3日目であるがなかなか興味深い展開になっている。
 野路氏が小学2年生の時に父親を癌で亡くし、小学5年の時には一番上のお兄さんが商売に失敗し、住んでいた家を売り払ったという大変な幼少期のようである。

 話があちこちに飛んでしまったが、こんな風に朝から力を与えてくれる「私の履歴書」は私にとっては今やなくてはならない存在である。
 野路氏には明日からはどんな人生が待ち受けているんでしょうね。
* 一太郎を知っているのって何歳以上の人なんでしょう? 今の若い人は知らないでしょうね。明日 事務所で20〜40代の人に知ってるか聞いてみよ。
posted by ヒロイ at 15:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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