2021年02月23日

No719:いつからこんな あら探しをする社会になったのか

 過去において何かミスを犯したり、問題となる発言をしていたという いわゆる“あら”が見つかった場合 、ここぞとばかりその部分に攻め入り、その当事者にとっては当然 触れて欲しくない点についてもお構いなしに集中放火を浴びせるというやり方が最近やたらと目につく。
 対象となる人が政治家や芸能人の場合、こういったことをされるのはある程度 宿命と言わざるを得ない部分もあるが、最近のマスコミの報道を見ていると雑誌の発行部数を増やしたり、視聴率を稼ぐためにやっているとさえ思えようなところもある。またSNSでは発言者が誰か定められないという点を利用して、責任の問われない発信・発言がし放題の状態になっている。
 日本人はいつから こんなあら探しを好むようになったのであろうか。私は昨今のこの状態を「嫌な感じ」と思いながら見ているひとりである。
 確かに問題となる言動をし、言われる側が悪い場合も往々にしてあるが、私自身はこのような状況には、正直辟易している。
 もちろん“あら”の 中には先日の東京五輪組織委員会の森 前委員長の発言や菅首相の長男の総務省接待疑惑など誰が聞いても呆れたり、擁護のしようのない言動もあるが、些細なことで「もうちょっとそっとしといてやれや」と思うようなこともある。
 確かに間違っていることへの指摘があると、指摘された方は間違っていたことについて二度と同じ過ちを繰り返すことのないよう反省するという一定の効果がないわけではない。
 そういった 意味ある正当な指摘は世の中を変えていく上でも決して無駄ではないが、中には他人に対して暴く必要のないようなことまで公表し、ただ単にうけや腹いせのためだけにやっている例も数多く見受けられる。
 最近ではマスコミだけでなく、政治家同士でただ単に相手を蹴落とす、角度を変えて見てみると、自分が這い上がる手段として、あらを探し、それを公表し、世論を味方につけるという手法をとる人もいるが、その発言の中身は正当な論戦には程遠い場合もある。
 当然 悪は許されるものではないが、ちょっとしたミスや思い違いのようなことは、成長する過程では誰にでも起こりうることであるし、こういった時に指摘の仕方が下手であったり、そのタイミングがまずかったりすると、若い人や経験の浅い人の成長を阻害することにもなりかねない。内容にもよるが、もうちょっと長い目で見て 盛り立ててやればなと思うこともあるし、そういった広い心で接することがその対象となった人を予想以上に飛躍させることだってある。

 私も決して小難しい本ばかりでなく、いろいろな分野の月刊誌や週刊誌に目を通す機会もあるが、とにかく褒めることより、けなしたり、あらを探すような記事が多いことにうんざりする。
 そりゃ輝かしいことよりも、汚点とよばれることの方が記事にしやすいし、読者受けして発行部数も増えるのであろう。
 少し前、といっても20年、30年程前はもう少し、褒めるような話を読んだり聞いたりして、自分の目標にしたりすることもあったが、今や雑誌に中身は けなしや揚げ足取りのオンパレードである。
 どこの社会においても完璧な人はほとんどいないであろうし、企業の経営者や人の上に立つ立場の人なら、入社時 「アイツ困ったやっちゃ」と思っていた新入社員が、教えたり、いっしょの時間を過ごすことによって大きく成長し、5年もすれば なくてはならない存在になっていたということは誰もが経験していることであろう。

 こんなことを言っている自分がそんな対応ができているかというと、なかなか「はい」とは言いづらいが、このようにいやだなと思うことにも目を向け、自分なりに考えることによって 少しでも自己反省の材料になればと思って今日も偉そうなことを書き綴ってしまった。
 みなさんはどう思います、最近の世の中・・。
 こんなこと言うこと自体、もう誰からも相手にされないおっさんなのでしょうか?
posted by ヒロイ at 18:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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