ただ、日々の家庭生活や仕事、それに友人とのやり取りでこの”性格の不一致”という言葉を使うことはほとんどない。
例えば、同じ職場上司・同僚・部下 どれをとっても、「あの人(あいつ)とは”性格の不一致”でうまくやっていけない」なんていう使い方をする人はいないだろう。
ただ、「あの人とは”考え方が違う”のでいっしょに仕事がやっていけない」とか、友達に対して、「あいつとは”考え方が違う”し、会っていても楽しくないので、もう あまり会いたくないな」というような使い方は決して違和感を覚えるわけではない。
今日は日本語の学習をしているわけではないが、この2つの言葉の中身を考えると 「なんで?」と思っていたので、今日はこの使い方について私の思うことを述べさせもらうことにする。
芸能人が、「性格の不一致で・・・」と離婚会見をするだけでなく、一般人の離婚理由でも同じような話を聞くが、私はこの話を聞くたびに 性格が一致している夫婦なんてほとんどいないのでは。性格なんて一致していない方がよほど楽だし、もし、同じ性格だったらと考えるとちょっとゾッとするくらいである。こんな思いは 私だけではないと思うのだが。
夫婦だけでなく親子や兄弟、それに会社の上司・同僚・部下、それに友人でも”性格の不一致”の関係を案外利用したり 楽しんだりしてところもあるように思う。
明るい人と暗くはないがそれほど明るくない人、おしゃべりな人と聞き役の方が楽だと思っている人、のんびり屋とそうでない人、整理整頓ができる人とそうでない人 等 案外この性格の違う者同士ってうまくやっていってるケースが多い。もちろん、イラっとすることがないわけではないが。
と いうことで、「性格の不一致」で離婚するなんてどうも合点がいかないし、それは本当は ”性格の不一致”ではなく、この後 触れる”考え方が違う”というのが真の理由のように思うし、確かに”考え方が違う”というのはいっしょにいて苦痛に感じるかもしれない。
こんなことを言うと古い人間、いや 場合によっては問題発言ととられかねないが、この”考え方が違う”というのは、その人の生き方やそれまでの人生によるところもあるように思う。
身内や親族はある程度 同じような環境で育ったり成長してきたが、環境や親の考え方が違えば それはやはり”考え方が違う”ということの要因になるのかもしれない。
これは親の仕事や経済的なことを言っているのではなく、人生の中で何を大切にするのか、何に恩義に感じるのか、もう少し大げさに言うと、誰に対して自分を犠牲にしてまで力や時間を注いでも悔いが残らないのか等、まさしく 生き方そのものであろう。
この生き方というのは何を大事にするのか、何に価値観を見出すのか、ということに他ならないように思う。
今日の話はどんな形で終えられるのかと思って書き出しが、こうしていろいろと書いていると今日の結輪が見えてきた。
それは離婚やいっしょに仕事をしたくなくなるのは、”性格に不一致”ではなく、“価値観の違う”人だということ行きついた。
価値を同じことに見出せる人、そんな人といっしょに仕事をしたり、同じ空間で同じ時間を過ごす これこそ人生にとってプラスにあり、より意味のあるものになのだろうとあらためて感じた。
今後 生きていく上で、“同じことに価値を見出せる人” こんな人と少しでも多くの時間を過ごせるようにしたいなと思った。これは家族という小さなくくりではなく、職場や日々仕事で接する顧問先の方々等 いろいろな人を含めてのことである。
やっと今日の話、まとまりがついたので終わりにします。
ちょっと堅かったかな、今日の話は。
*上記の文章、実は昨夜[11/17(日)]に書き終わっていたのにそのまま寝てしまったため、アップが今になってしまいました(← 「言い訳」)。