2019年08月04日

No640:「がむしゃら」って よくない言葉?

 私は50代半ばを超えているが、我々の世代以上の人にとってはこの「がむしゃら」という言葉は今まで何度も耳にした言葉と思われるが、最近はこの「がむしゃら」という言葉がいいようには思われず、聞く機会も段々少なくなってきているように思うし、学校や会社での教育の場においても、「がんばる」と同様、「がむしゃら」なんてナンセンスという風潮がある。
 これは人それぞれが個性や能力に応じて自分の納得いく形で物事に取り組むことが大事なことであって、自分の能力や限界を超えるようなところまでのがんばりは必要としない というか、“無理は禁物”というような考え方がいろいろな場面で取り入れられている。
 私自身、「がむしゃら」という言葉が決して嫌いなわけではないが、確かに自分の子供にも使ったことはほとんどないし、仕事でも古き時代には言われたことも言ったこともあったが、ここ数年は口にする機会さえほとんどない。

 実は今日、まだお盆ではないが私の勝手な都合で実家の墓参りに行ってきた。
 5年前に亡くなった父の墓から帰る途中で、父から今では禁句に近いこの「がむしゃら」という言葉をことあるごとに言われたことを思い出した。今から思えば、父の生き様を端的に表すのがまさしくこの「がむしゃら」という言葉であったように思う。
 「がむしゃら」という言葉を調べてみると、漢字では「我武者羅」と書くそうで(恥ずかしながら今日初めて知った)、
  ・一つの目的に向かって夢中で取り組むさま。
  ・後先を考える前に目的へと突き進もうとするさま。
というのがみなさまもご存じの言葉の意味である。
 亡くなった父が口にしていた「がむしゃら」というのは、決して無理をしてまで、自分の能力以上のことをするということではなく、自分のできる範囲で手を抜かずにやるように という意味だったように思うし、その言葉の中には、「お前がやることを親としてしっかり見守ってやるし、応援もするから」というバックアップやフォローする気持ちが込められていたように思う。
 私は全てのことにがむしゃらになれたかというとそうでもなく、中には手を抜いたこともいくつもあったし、たとえがむしゃらに取り組んでも結果を伴わないこともたびたびあった。ただ、脇目もふらずがむしゃらに取り組んだことは、期待したような結果が出なくても不思議と納得のいくものであったように思う。
 
 謙遜して言うわけではないが、凡人の私なんかはがむしゃらに取り組んでやっと人並みの出来で、レベルの高い人たちには振り落とされずに着いていくのが精いっぱいであるというのが本心である。
 年齢的にいつまでもがむしゃらになれるわけではないが、もう少し無理がきく間は、「増生、(達成)できるかどうかは別にして、がむしゃらに取り組んでみ。」と父に言われた言葉を頭の片隅に置きながら、仕事に、そして仕事以外のことにも がむしゃらにあたってみようとあらためて考えた。
 墓参りというのは墓に線香をあげ、手を合わせる単純な行為かもしれないが、墓の向こうから聞こえる声を感じることこそ墓参りする意味のようにも思う。
 本当はしっかりと墓も磨いて、花もきちんと準備しないといけなかったのかもしれないが、十分な時間がなかったこととあまりに暑すぎたことで随分 省略した墓参りになってしまったが墓の向こうにいる父のことをほんの少しでも思い出せたことで行ってきてよかったと思った。

 「がむしゃら」っていい言葉だと思うんだけど、無理を強いてはいけない今の世の中では多用したり、強要してはいけないようなので 他人には使わず、自分のためにだけにある言葉として大事にしていきたいと考えている。

 結果はともあれ がむしゃらにやった後って最高にすがすがしいんだけどな・・・。
 本当に難しい世の中になったもんだ。我々 中年のおっさんにとっては。
posted by ヒロイ at 23:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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