2024年09月29日

No.900:このコーナー いつまで続けるんだろう?

 今日 Noを打ち込むときに900回であるということで自分でも驚きと少しだけ感慨に浸りながら900 と入力した。
 17年前2007年9月21日に私とカミさんを含め4人で事務所を立ち上げてから早いもので17年になる。
 それから顧問先の方々や事務所のスタッフ等 ほんとうにいろいろな人と巡り合い、助けてもらいながらここまでやってこれた。
 最初はいつまで続くのかなと思いながら始めたこのコーナーもこんな回数になってしまったが、じゃあいつまで続けるのか? いつでお終いにするのか? この答えを出すのはなかなか難しいものである。
 最初 始めたころは「先ずは50回まで続けよう」とか、100回目の頃は「もうすこしだけ ひとまず200回までかな、この頃には読者も飽きてきているやろし」とか考えていたが、ここまでくれば 次なる目標は1000回といことになってしまうのか?
 こういった目標は自分でも決められないし、数年前に一度 潮どきかなと止めようかなと思ったこともあった。
 ただ約束はできないが、ここまできたら一応1000回を目標にがんばるしかないのかな なんて考えたりもしている。
 となると1週間に1回のペースでいくと年間52回なので、あと2年も続けなければならない・・・これにはちょっと自信がないがひとまずどこまでいけるかわからないがやってみようと思う900回目である。
 もちろんNo1からこれだけの回数のものをわざわざ見返すことはないが、その時々のことを綴っているので結構リアルな内容もあり、それなりに鮮明に記憶に残っている。
 何回目かはわからないが(比較的 初期の頃)、小、中、高とまだ3人の子供が家にいた頃、一つしかない我が家のトイレの順番がなかなか回ってこないということを綴ったことを覚えている(詳細な内容は思い出せないが)。
 長男が浪人中に毎朝 神社にお参りにいったこともどこかで綴ったように思う。
 その後 17年の間には父も母も亡くなったし、子供たちは3人とも進学や結婚で家を出て行き、数年前からはカミさんとぽぽたん(ワンちゃん)との生活になっている。
 何気なく綴ることもあれば、怒ったり、悲しんだりしたことをパソコンに打ち込むことによって気持ちを静めることもできるという点では、人のためではなく自分のためにひたすら続けてきたというのが本当のところかもしれない。

 和歌山にいる長女は1カ月に2回、東京にいる次男は年に1、2回 我が家に来るし、2人ともお盆には顔を見せてくれていた。長男は東京にいて、奥さんも仕事をしているので なかなかゆっくりと京都に来ることはなく、奥さんも大阪出張の時に一人で泊まりに来ていたが、10月の連休に2年ぶりに2人でいっしょに来るということで楽しみで仕方がない(あまり人にはワクワクするなんて言ってないが・・・)。
 こんなことで喜ぶなんて年をとったのかもなんて考えてしまうが、久しぶりなのでなおさらなのかもしれない。
 今日は900回記念ということでもっと何かを打ち出さないといけないが、特別な企画もないのでこのへんにしておくが、900回の中で私が選んだベスト10に入ると思われる 親と子の想い を綴った過去のものを下に掲げておきますので、お時間のある時にサラッと見ていただくことで900回の記念ということにしておいてください。

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2023年10月29日  No.853:息子はなんとも思っていないだろうけど
 長男が友人の結婚式のために東京から京都に来ていた。
 昨日(土曜日)午後からの結婚式だったので、直接式場に向かい 終わった後 夜だけ我が家に泊まりに来るとのことであったが、久しぶりに会う小中高それぞれの京都の友人も多かったようで、我が家に着いたのは夜中の2時半ごろだったようである。もちろん私は深い眠りについていたので来たことは知らなかったが・・。
 長男は家庭もあるし、仕事もかなり忙しそうなので 京都に来るのは1、2年に1回程度であるが、今年は10月初旬に実家近くで行われた私の母(長男からみると祖母)の葬儀に参列したので その時には顔を合わせた。
 ただ、東京から片道5時間かかるところを日帰りで、葬式、火葬場行きとバタバタしてしていたし、しかも4、5時間くらいの滞在時間であったので、「元気にしているか?」、「おお、まあな」というやり取りくらいでほとんど会話らしい会話はしないまま帰って行った。

 今回は我が家に立ちより何とか一泊したので、今日の昼は事前に予約していた近くのお店に行き お昼は多少ゆっくりすることはできたが、遅くならないうちにということで2時過ぎには東京に帰って行った。
 30を過ぎた子供と特に何が話したいわけでもなく、子供の方も取り立てて何かを話すわけでもないが、普段いない家族が家にいるというのは不思議と心が和むものである。しかもそれがいっしょに住んでいない子供ならなおさらである。

 今回の私と長男の年齢と比較すると多少 年代的な組み合わせは違うが、今から10年程前、私が50代になり、今月亡くなった母がまだ70代だった頃、私が休日に実家を訪れた時、母がよく「あんたの顔を見ると元気が出るわ」とか、帰る頃になると、「暗なると危ないんで明るいうちにはよ帰り、毎日忙しいやろけど体には気をつけんとあかんで」と言っていたが、今日 私は当時の母と同じような心境になっていることに気付いた。
 父は父で、病気を患ってからは多くの時間をベッドで過ごしていたが、私が実家を訪れ、帰る時には父が手を合わせて見送ってくれたことも思い出した。 父は喉頭がんで70歳くらいから声を失っていたので、なおさら態度で気持ちを伝えたかったのかもしれない。

 今日の数時間のことは長男は特になんとも思っていなかっただろうけど、私のことを「マスオさん」と呼んでくれる京都好きの奥さんとまた来てくれることを今から楽しみにしている。
 我々の年代になると親として子供から受ける対応が、過去において自分が子供として親に対して接してきたこととだぶるので何とも不思議な気持ちになってくるものである。 以前、このコーナーでも触れたような記憶があるが(Noまでは確認しませんが)人生って順送りということをつくづく感じてしまった。
 私の場合、私も子供もいわゆる現役なので、お互い仕事をしている者としてゆっくり話がしたいなとも思ったりもしたが、まずは何はともあれ元気でいることが一番大事であることはどんな場合でも共通ののことである。
 無理せず、無茶せず 仕事に励みたいものである。
 でも現実に目をやると 一息つくなんてなかなかできそうもないけど・・。
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2024年09月22日

No.899:愚痴の言える相手がいるかどうか

 誰しもが愚痴は口にしたことのあるだろうし、私も自分では愚痴を言っている認識はないのかもしれないが、知らず知らずのうちに愚痴を言っていることもあるのだろう。
 愚痴を口にしたことがないという人がいればお目にかかりたいが、もしかすると「愚痴っても何一つ解決しないんで私は絶対に愚痴は言わない」という人も探せばいるのかもしれない。
 ◆愚痴
  ・言っても仕方のないことを言って嘆くこと
  ・言ってもかえらぬこと、益にないことを言う
  ・泣き言
 確かにこうして愚痴の意味を見てみると いい意味ものは何一つないし、前向き あるいは 発展的な要素はそこにはないのかもしれない。
 山の中に籠って仙人のような生活をしていれば、ものを言う相手もいないし、自分の世界だけという境遇なので愚痴を口にする機会さえもないのであろう。
 ただ、通常 人と接する生活をしていると、思いどおりにいかなかったり、こちらが期待した回答や行動でなかった場合にはついつい、「ちぇっ」、「なんでやねん」、「うそやろ」なんて独り言を言っていることがある。
 周りの人に対して思っていることをすぐ口にするタイプの人もあるが、それはそれで敵を作ったり、周りの人に不愉快な思いをさせることもある。
 愚痴を言っている自分を後で振り返ってみるとうんざりする部分もあるが、心の中を素直に表現するという意味ではそこには本当に素直な自分が存在するのも事実である。
 愚痴が全く生じないようなやり取りなんてある意味存在しないであろうし、職場であれ、家庭であれ、あるいは街中や電車の中、それに車を運転していても 口に出すかどうかは人によるだろうが、思いどおりにいかないことの連続であり、思いどおりに行くときの方が少ないようにさえ思う。

 心の中だけで自分に叫ぶ愚痴もあるが、周りに人がいる時に「ちょっと聞いて」という気持ちも多少込めて愚痴を言っている時があるが、こういう気持ちを外に出すことって非常に大切であるし、そういう環境にいられるのであればそれはとても幸せなことのような気がする。
 あまりにもどぎつい愚痴で周りにいる人が不愉快な思いをするようなものはマイナス効果しかないであろうが、口にすることによってスカッとするだけでなく、時には愚痴を言っている自分を反省していることもある。「あんな愚痴、人前で言わんかったらよかった」なんて。
 そういう意味で(軽めの)愚痴が吐き出せる環境って必要だろうし、これにより自己反省するだけでなく、次へのステップになったりすることもある。
 ただ、愚痴が高じれば悪口になったり、相手を責めたりすることにもなりかねないので愚痴もほどほどに というのが大切な部分であろう。
 今日はもともと愚痴る自分が嫌になることもあり、その反省の意味も兼ねて書き出したのであるが、ふと今話題の兵庫県の齋藤知事のことが頭に浮かんだ。
 この人ってたぶん愚痴る人もいなかったり、愚痴れる人柄でなかったのかもしれない。
 というのも口にしている愚痴が間違っていたり、ひどすぎると、それに対して意見を言ったり、注意する人もあり、その結果 自分自身の生き方や発言を修正する機会にもなるのであろうが、齋藤知事はそういう機会がなかったのかもしれない。
 でも それは偶然そうなったのではなく、そういうものが言えない環境を自分自身が作り出したものに他ならない。

 言い過ぎるて 聞いていた人に不快感を与えてはいけないが、愚痴が言える環境って意外と大事なことなのかもしれないし、社会、学校、家庭、そして職場でも必要で、もしかすると企業経営のコツの一つともいえるのかも?
 私の場合、言い過ぎたことで失敗したことは何度もありますが、皆さんはどうですか?

 先週に続いて、今週も連休っていうのはうれしいですね、まだあと一日ありますから。
 では、今日はこのへんで。
posted by ヒロイ at 14:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月15日

No.898:33歳で第二の人生へ

 最近はというかもう10年以上も前から、“転職”はマイナスイメージではなくく、どちらかというと新しい分野や仕事、そして新しい職場で以前よりもステップアップした自分を試すという意味でも前向きな要素のあるものになってきている。
 転職と言っても多くの場合、今までしていた仕事と関連のある仕事で、今までの経験を活かして転職するケースが多いのかもしれないが、全く違う分野への仕事に新たにチャレンジする人もいるのが今の転職事情であろう。
 先日 面談した勤務医の先生も大学の工学部を卒業された後、(理由まで聞けていないが)「医者になろう」と思われて 医学部へ入り直して医師になられたということで、一度別の仕事をされていたのでこの方も転職組の一人であろう。
 もちろん医者なんて なろうと思っても受験・合格という関門を通過できないと実現しないが、この方はそれをやってのけられたということで、一般人ではそれはなかなかできないことを成し遂げられている。

 今日 たまたまネットニュースで野球選手の引退会見のことが載っていたが、18歳から15年間 野球一筋、これから何の仕事をするにしても野球以外の仕事であれば俗にいう新米であるし、家族がいれば一家が食べていかないといけないという非常に厳しい現実が待ち受けているかもしれない。
 コーチなど野球関連の仕事に就けるのはほんの一握りで、これから先 何していこうかといろいろな考えが頭に浮かぶはずである。
 一昔前であれば、40前で再スタートというのはなかなか厳しいものがあったが、今の時代多くの人が70歳位まで仕事をすると考えれば35歳までの転職は仮に全く新しい分野に進んだとしてもまだ30年以上 仕事をする期間は残されているので決して遅いスタートではない。
 ただ 今の時代、転職について華やかな捉え方もあるが、そう簡単なものではない。ただ、まじめに取り組めば何とかものにできる仕事にたどり着けるであろう。
 友人を含め、私の周りにも転職した人は何人もいるが、うまくいっているのは真面目、勤勉 以外に・・あと一つの共通の要素が頭に浮かぶ。
 話しやすさや人の良さなど人柄というのも大切な要素かもしれないが、転職した人の顔を思い浮かべてみるとお金の管理がきちんとできる人が結構うまくいっているように思う。
 前職で桁の大きな金額を扱っていたり、お付き合いの費用もかなりの額であったりした人が転職後も前職での金銭感覚を引きずりながらいる人はどこかでいき詰まっている例がいくつかある。
 お金に細かい人が決していいというわけではなく、やはり身の丈に合ったお金の使い方、つまり現在の自分の状況にあった金銭感覚を持った人なら何するにしても大きな心配もなく、結果としてはうまくいっているように思うし、これは転職という土俵だけでなく、何をするにも大切なことであろう。
 たまに顧問先の収支を見ていて、まだこんな収入なのにそんな高い物(具体的には車なんですが)買うの?と思うことがある。
 私はこういう風に思ったことをすぐに口にしてしまうので煙たがられるのかもしれないが、行動の順序が違うんじゃない と思えてくる。

 何か転職の話から少し違う方向に行ってしまったが、やはり身の丈に合った金銭感覚が一番大切なことのように思う。
 でも財布のひもって締めすぎても、緩めすぎてもいけないし、お金のことは程よいっていうのが難しいですね。

 なんでこんな話の流れになったのかもう一度 文章をもとに戻って読み直してみると、野球選手が今までの1/10か1/100の生活費でやっていけるのかなっていのうのが一番心配であり、きついことなんだろうなと思ったからなんです。
 まとまりが悪くてすみません。

 明日も休みです、みんな楽しいことしてますか?
posted by ヒロイ at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月08日

No.897:冠婚葬祭の意義について思うこと

 昨日は母の一周忌の法要のため実家の方へ行っていた。
 身内の葬儀とか法要はたびたび遭遇するものではないが、葬儀、四十九日、納骨、一周忌(この間に初盆もある)と続く一連の流れは10年前に父が亡くなりその時の記憶も残っている中で、同じような流れの一周忌であった。
 事前にわかってはいたが、お坊さんのお経は実家の仏壇の前、そして墓に移動して墓前で、そして最後はお寺の本堂で 車で10分程度の移動とはいえ、お坊さんはもとより我々親族も最後の食事をする場所も含めると4カ所を巡ることになり、しかもお墓とお寺は石段もあり結構体力のいることではあった。
 ただ、91歳でなくなった母のことを思い出すにはお経の間、特にお経の意味がわかるわけでもないので、母の遺影を横目で見て母のことを思い出しながら,3回のお経が終わるのを目を閉じながら待っていた(お坊さんそしておかあはん 少し不謹慎になってしまいすみません)。
 コロナ禍ではお葬式はもとよりこういった儀式も簡略化されたり、実施されなっかったケースもあっただろうが、昨日こうして一周忌の法要に参列してみて、こういった仏事の意義はあるのだなとあらためて思った。
 生前 看病や介護状態にある時は病院や施設に入っているとはいうものの 多少なりともどうしているのかなと離れて暮らす母のことを考える機会もあったが、いざ 亡くなってしまうと毎日が慌ただしい現代社会においてはこういった節目の時でないと過去を振り返る機会もほとんどないし、そういう意味においては一周忌、3回忌、7回忌 という節目の法要は個人を忍ぶことだけでなく、少し大げさかもしれないが自分自身の人生を振り返る機会にもなるなとも思った。
 会食の後、兄と兄嫁が探し出した、実家にしまい込んであった古いアルバムを見せてくれたが、その中の1枚に60年以上も前の写真の添え書きに「増生 3ヵ月になる」と書かれており、そこに写っている3人目の子供を抱きかかえている母の姿は、若いのはもちろんのこと私にはなんとも誇らしいそうな顔に見えた。
 冠婚葬祭は費用も掛かるし、時間の調整という点でも大変な部分はあるが、忙しい中でなかなか顧みることにない部分を振り返るという意味ではその意義を感じた昨日の法要であった。
 私が結婚して10年目くらいの時に後輩の結婚式に出席して、初々しい新婚の2人を見て、その帰りには「あんな時もあったな? 今の俺の態度では夫婦や家族の生活はやばいな」なんて反省したことも幾度となくあったが、これも多少意味合いは違うが結婚式に出席する意義の一つであるなと当時考えていたことを思い出した。

 話はごろっと変わるが、
 先週このコーナーで綴ったように自民党の総裁選と立憲民主党の代表選挙は、まさに立候補ラッシュであり、締め切られていない自民党の方はまだもう少し立候補報道が続くのであろう。
 今回の両党の選挙は正直 すごく関心があるわけではないが、政治不信、そして若者だけでなく国民全体に広がる政治無関心の状態を打破する一つのきっかけになればと思っている。
 私は日本をよくするのは政治家ではなく国民である と常々思っているので、多少なりとも先の見通せる国になるためには我々も関心を寄せる必要があるのであろう。

 9月ももう少しで半ばに差し掛かろうとしているというのにまだまだ暑い日が続く中、今日の新聞広告のある料亭のおせち料理の紹介とその申し込みが載っていたが、「35度もある中でおせちかよ」、「早けりゃいいもんでもないと思うんだけどな?」と驚きを通り越して、この商戦の戦略は一体どこにあるのか?となんて考えたりもした。
 みなさん いくら何でもちょっと早すぎると思いません?
posted by ヒロイ at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月01日

No.896:一世一代の勝負のはずですが

 ここでは政治や宗教の話はしないというか、しない方がいいという認識のもと今までこういったテーマには深く入り込んだことはなかったが、見ていてうんざりする政治ショーが目の前で繰り広げられているので今日は少しだけ政治の話を取り上げさせていただくことにする。
 政治といっても特定の政党や候補者を後押ししたり、批判するような話ではなく、今 最も注目されている自民党の総裁と立憲民主党の代表を選ぶ選挙のことである。
 特に自民党においては今まで派閥というものがあったので、すべてではないが派閥の首領の意向に沿って そこに属する議員は派閥の方針に従うという中で総裁選が行われてきた。
 ただ 今回は麻生派以外は派閥としては残っていないので、議員は何かにとらわれたり、ボスの顔色をうかがったりする必要もなく自由に立候補ができ、自由に選挙活動ができるという今までにあまり見たことのない形の総裁選が始まろうとしている。
 年齢や当選回数に関係なく自由に立候補ができるという点では一見 開かれた政党になったかのようにも見えるが、今回10人近くの人が立候補するというのにはいささか驚いているし、本音を言うと少しうんざりしている部分がある。
 今の国会の議席数からいくと、当然のことながら自民党の総裁になった人が我が国の首相、つまり総理大臣になるわけである。
 今回の立候補が予想される顔ぶれを見ると この人が1億人もの日本国民を引っ張っていけるのかと実力を疑いたくなるような人もいるし、我も我もと言って総裁選に手をあげている人の中には、たぶん自分は当選しない、つまり総裁には選ばれないのをわかっていて手をあげている人もいるように思えるのは私だけなのでしょうか?
 今までの自民党政治を振り返ると1回目の立候補で総裁になった人ばかりではないので、次のための布石という意味での立候補が決して悪いとはいえないし、それはそれで将来のことを考えると意味のある立候補(体験)にもなってくるのであろう。
 何が言いたいのかというと、ここからは私見であるがこの10人近くの人が全て本気で総理大臣になろうという覚悟ができているのかな、あるいは外から見て果たして総理大臣の器かなと多少疑いたくなるような候補者もいるということである。
 ここまで言うと言いすぎかもしれないが、「今回は派閥の縛りもないので今後の自分の地位の確保と知名度を上げるためにちょっと顔を売っておこうか」なんて思っている人もいるように思えてならない。
 一騎打ちとまではいかないまでも、自分の意思だけでなく自他とも「この人なら」と認める人物というのが、総理大臣にふさわしいのであろうし、そう考えるともう少し絞られてくるようには思うのだが。
 話が少し飛躍しすぎかもしれないが、東京都知事選に一人の都知事を選ぶのに56人もの候補者が立候補し、ポスターの貼る場所が足りなくなったのを見て、「選挙って何っ?」とみんなが疑問を抱いたはずだが、今回の総裁選の予測される立候補のメンバーを見てみると、次元は違うが、ひとまず今回は知名度を上げる機会にしかとらえていない人も何人かいるように思う。これは立憲民主党の代表戦も似たり寄ったりの感がある。
 そう考えると自由立候補制のようになった今回の自民党の総裁選と比較して、従来の派閥の首領を持ち上げ、みんなで支えて立候補、そして周りの者が応援する従来の立候補者選びも決して悪い形ではなかったのではと思えてくる。
 派閥と聞くとすぐお金の話と結びついてくるので、派閥=悪 みたいに捉えられるが、同じ考え方、つまり主義主張の同じ者が集まり、その中で先輩や後輩がいて、いろいろなことを教えあったり勉強しあったりする政策集団としての派閥はそれなりの意味があったのではと思えてくる部分もある。
 月曜日以降、まだまだ何人もの立候補表明がありそうだが、こんなふうに考えているので、批判するばかりではなくそれぞれの人の考え方はきちんと聞いておこうとは思うが、私の中ではなんだか人気投票と化してしまったかのような今回の自民党の総裁選、立憲民主党の代表選はますます政治不信を増長させるのではと懸念してしまう。
 さあ、両党とも最終的には何人の候補者になるのでしょうね。
 ここでは名前はあげませんが、今回の自民党と立憲民主党の候補者でこの人に総理大臣になってもらいたいというか なったらどれだけ日本が変わるのかなと期待が寄せられる人が一人だけいますが、日本は直接選挙制でないので党員にでもならない限り、投票権はないので一般国民ははたで見ているしかないですよね。
 各候補者のみなさま、もちろん当選が目的であることを否定はしませんが、マスコミがやたら騒ぎすぎる立候補表明、明日からたくさん見ることになるのでしょうね。

 最後に騒ぎ過ぎた台風ですが、これも大げさに言わずに被害が出れば、国やマスコミの責任もあるので、今回のような報道には決して腹も立ちません。
 どこにも行かずにじっとしていましたから。
posted by ヒロイ at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする