2023年10月29日

No.853:息子はなんとも思っていないだろうけど

 長男が友人の結婚式のために東京から京都に来ていた。
 昨日(土曜日)午後からの結婚式だったので、直接式場に向かい 終わった後 夜だけ我が家に泊まりに来るとのことであったが、久しぶりに会う小中高それぞれの京都の友人も多かったようで、我が家に着いたのは夜中の2時半ごろだったようである。もちろん私は深い眠りについていたので来たことは知らなかったが・・。
 長男は家庭もあるし、仕事もかなり忙しそうなので 京都に来るのは1、2年に1回程度であるが、今年は10月初旬に実家近くで行われた私の母(長男からみると祖母)の葬儀に参列したので その時には顔を合わせた。
 ただ、東京から片道5時間かかるところを日帰りで、葬式、火葬場行きとバタバタしてしていたし、しかも4、5時間くらいの滞在時間であったので、「元気にしているか?」、「おお、まあな」というやり取りくらいでほとんど会話らしい会話はしないまま帰って行った。

 今回は我が家に立ちより何とか一泊したので、今日の昼は事前に予約していた近くのお店に行き お昼は多少ゆっくりすることはできたが、遅くならないうちにということで2時過ぎには東京に帰って行った。
 30を過ぎた子供と特に何が話したいわけでもなく、子供の方も取り立てて何かを話すわけでもないが、普段いない家族が家にいるというのは不思議と心が和むものである。しかもそれがいっしょに住んでいない子供ならなおさらである。

 今回の私と長男の年齢と比較すると多少 年代的な組み合わせは違うが、今から10年程前、私が50代になり、今月亡くなった母がまだ70代だった頃、私が休日に実家を訪れた時、母がよく「あんたの顔を見ると元気が出るわ」とか、帰る頃になると、「暗なると危ないんで明るいうちにはよ帰り、毎日忙しいやろけど体には気をつけんとあかんで」と言っていたが、今日 私は当時の母と同じような心境になっていることに気付いた。
 父は父で、病気を患ってからは多くの時間をベッドで過ごしていたが、私が実家を訪れ、帰る時には父が手を合わせて見送ってくれたことも思い出した。 父は喉頭がんで70歳くらいから声を失っていたので、なおさら態度で気持ちを伝えたかったのかもしれない。

 今日の数時間のことは長男は特になんとも思っていなかっただろうけど、私のことを「マスオさん」と呼んでくれる京都好きの奥さんとまた来てくれることを今から楽しみにしている。
 我々の年代になると親として子供から受ける対応が、過去において自分が子供として親に対して接してきたこととだぶるので何とも不思議な気持ちになってくるものである。 以前、このコーナーでも触れたような記憶があるが(Noまでは確認しませんが)人生って順送りということをつくづく感じてしまった。
 私の場合、私も子供もいわゆる現役なので、お互い仕事をしている者としてゆっくり話がしたいなとも思ったりもしたが、まずは何はともあれ元気でいることが一番大事であることはどんな場合でも共通ののことである。
 無理せず、無茶せず 仕事に励みたいものである。
 でも現実に目をやると 一息つくなんてなかなかできそうもないけど・・。
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2023年10月22日

No.852:省いたり除いたりするのが上手な人

 「省く」や「除く」という言葉や行為はどちらかというと、全てを満たさないいう意味で捉えるとマイナスのイメージがあるが、現代社会においてはこの言葉は決してマイナスだけではなく、プラスに向かうために必要なことのようにも思える。
 というのも仕事はもちろん、仕事以外のことであっても あれもしなければならない、これも片づけなければいけないと 時間がいくらあってもできないことが多すぎるし、これって私だけでなく多くの人が日頃から感じていることではないのかなと思う。

 そりゃ 目の前に与えられたものを全てこなして解決できるスーパーマンのような人間ならこういった状況も乗り越えられるのであろうが、普通の人間ならここまでしかできないと限界を感じて当然であろう。
 もちろん何もせずに放り投げるようでは話にならないが、物事を進めるにあたっては、いろいろな局面において取捨選択する必要があるということである。
 これだけ情報が溢れ、世の中のニーズも多様化する中、この必要なものと必要でないものとを振り分ける作業の上手下手って、場面によってはその人の評価の違いになって表れることだってある。
 古くは何か案内がくるというのは封書かはがきであったが、私が仕事をしだしたころからそこにFAXというものが加わり、セミナーの案内や業務上のお客様との文書のやり取りもFAXが多くの場面で使われるようになってきた。
 そして今はメールや主に個人間のやり取りではLAINの利用が大部分を占めるようになってきた。
 従来は読みたいものや必要なものを当事者が主体的に動いて自ら取り寄せていたが、今ではこちらの意思に関係なく、さまざまな情報がいたるところから、いろいろな手段で舞い込んでくる。
 この先、送られてくる情報をまともに相手していてはいけないので、さあ どこでバサッと切るのかということも重要になってくる。
 最近、事務所内だけでなく、外部のビジネスマンを見ていてもこの取捨選択、つまり 必要でないものを省いたり、除いたりする能力の高い人ほど、必要なものに集中していい仕事をしているなと思う時がある。
 よく「時間の使い方がうまい人」って言われるが、これは単に時計を見て時間を区切っているだけでなく、必要、不必要の判断が瞬時でできる能力のある人のことをいうのであるということがわかってきた。

 今回 なぜこんなことを急に言い出したのかというと、仕事が溜まったり、積まれたりするのは、たくさんの業務の舞い込んでくるということでは決して悪いことではないが、やはりそれを選別したり、判断したりする能力の違いによって、出来上がりの仕事やそのスピードに差が出てくるであろうと考えてあからである。
 言い換えれば、能力を高めることでいい仕事ができ、また仕事以外の時間もうまく作れる人間になれるということであるが、これは他力本願ではなく、あくまで自分の力でもってということである

 今日は思っていることや理想としていることをただひたすら綴ってみたが、終わりが近づいて もう一度読み返してみると、なんだか自分はできていないが、何とかやってみたいことをただ単に願望のように綴った文章になってしまったような気がする。
 企業経営の本では 選択と集中 という言葉も目にするので、この言葉も同じような意味かなとも考えたが、これは企業の経営手法・手段の話で、私が今回話した 取捨選択 とは大きく違うと思われる。
 いずれにしても必要なものを見極める力で明暗が決まってしまう世の中になっていっていることには間違いないし、ことが進まないのは処理する能力がないというだけではなく、見極める能力が足りないというところにも行き着いてしまう。
 何事においても、いろいろな意味での能力が必要とされ、その差が成果物の差になるんだな と最後は妙な形で納得してしまった。

 今日は少しひんやりもするが、こういうのが本当の秋っていう感じかなと思いながら、少し厚着で過ごす休日である。
 毎年思うが秋ってなんだか物悲しいですよね。
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2023年10月14日

No.851:どこもここも 人が足りないという話ばかり

 今日の新聞で運転手の不足によりバスのダイヤが組めず、やむなく運休せざるを得ない路線が出てきた という記事を目にした。
 ついにここまで来たかと思ったが、今はバスですんでいるけれど、公共交通機関という観点から捉えると、今後は電車にまで及んでくるのかもしれない。行きたくても行けない、乗りたくても乗れない なんていう感じで・・・
 ただ、自動運転はモノレールでは確か導入済みなので、軌道を走るという点では電車は今後 自動運転が進んでいくような気がする。

 実は今日は交通機関の話をしたかったわけではなく、人手不足の波が全ての業界に及んできているということについて触れてみようと思って書き出したところである。
 我が国は歴史上、これまで経験したことのないような少子高齢化の波が押し寄せているので、この人手不足は今後ますます拍車がかかり、改善するなんて言うことはあり得ないのではと思えてくる。
 人口構造上、社会全体としてはやむを得ないことであろうが、一つ一つの産業や事業所単位で見てみるとその差は結構大きいものがある。
 私どもの顧問先も常に求人募集をされているところもあるし、退職者が出た後、補充ができないまま現有勢力で従業員に無理をお願いして何とか会社を回しているところも何件かある。
 一事業所としては人が足りなくなるとまずは募集しないと始まらないし、経営者はとにかく穴埋めということでそちらにばかり気が行ってしまいがちだが、実はなぜ このタイミングで退職者が出たのか、またどうして毎度毎度同じようなことが繰り返されるのかを検証することも重要なことのように思う。ただ、正直 傍でで見ていてもこういった検証に目を向ける経営者は意外と少なく、「募集」と「補充」にばかり追われているのが現実である。
 人が辞めていくということは絶対にどこかに原因があるので、これを突き詰めないと一年中求人広告とにらめっこばかりしていないといけない。
 大企業に勤めている人やかなり高額の部類に入る給与をもらってる人たちは、まさに自分をいくらで売るかという点においても給与の額によって退職や転職することはあると思うし、中小企業であってももちろん給与の金額は働き続けるかどうかという点においては重要な要素である。
 ただ、事業規模が小さいほど、働き続けられるかどうかは給与の金額が決定的な要因ではなく、働きやすさ、居心地の良さということの方に重点が置かれているように思う。
 それはトップの気質や社風と呼ばれるものが大きく影響していると考えられるが、私も事務所の人たちに、「うちって職場としてどう?」なんて怖くて聞けないのが本当のところである。
 顧問先の入退社事情に目を向けると、人の辞めない会社は社長も社員も気持ちの上で余裕が見受けられるし、新しいことにも取り組んでいきやすい雰囲気があるが、逆に退職者の多い会社は、とにかく人を入れ、業務の穴埋めをすることにばかり追われている現実がある。
 これからの企業運営はいろいろなことがAIにとって代わられると言われているし、それも現実として受け止めなければならない部分はあるが、最後は人、どんな人間がその会社で働いているか で経営が決まってしまうというような気がする。
 人というのは もはやお金(資金)と同等、あるいはそれ以上に重要な資源であることに気付き、「この人手不足 何とかならないかな」と嘆いてばかりいるのではなく、「人手不足にならないようにするには」と考えている会社が最後は勝ち組になるのであろう。
 私も社会人になって40年近くが経つが、今までで一番“人”が大切にされる時代であることは間違いない。でも これが社会の原点かも・・。 
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2023年10月08日

No.850:何かと心配をかけた母が亡くなった

 10月3日の夜 母が亡くなった。
 亡くなる10日ほど前に介護施設で体調を崩し急きょ入院したが、体調も落ち着いてきたので 近くに住む兄夫婦が10月4日の退院予定日に迎えに行くことになっていた矢先のことであった。
 喉にものを詰まらせたことが原因であったようだが、本当にあっという間のことで連絡をもらった私も驚いた。
 91歳ということで平均寿命(87歳)と比較すると少し長生きできたかなというような年齢であるが、親の死というのは何歳であろうと年齢は関係なく、ふと目を閉じると思わずいろいろな場面が頭に浮かんでくるものである。
 元気だった頃はもちろんのこと、認知が進んでから会っても毎回 何か不思議な力をもらった感のある母であった。
 私のこのブログでも再三登場した母であったが、その中でもすでに施設に入って認知症も進みかけていた6年前のある日のことを綴ったものがあったので、今日はここにこれを掲げて母への供養とする。

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【No549:おかあはん、元気でおれや(2017年11月05日)】
 11月3日から今日(11月5日)まで事務所は3連休であった。
 最初の2日間は宝が池公園で汗を流したあと、じっくり時間をかけて確認したい書類に目を通すために事務所に出向いてはいたが、それ以外の時間は家で日頃から読みたかった本やなかなか読み返すことのできなかったセミナーのレジュメの再読に時間を割くことができ、仕事のある日とは違って時間を気にせずにいろいろなことに取り組めた。

 3日と4日は兄夫婦が空き家になった実家のそうじや台風被害の後片付けに行ってくれていたので、今日くらいは私も と思って85歳の母が入っている施設を訪ねた。
 連休最終日の5日はその施設で“家族会”という催しがあり、実家の近くに嫁いでいる姉を誘って、二人で同じ町にあるその施設へと向かった。
 母は姉のことはおぼろげながらも顔を覚えていそうであったが、私のことは目の前の当人が自分の息子の“増生”であると分かっているのかどうかは少しあやしい部分があった。 以前は、私自身『これが増生やで。』と自分のことを指さして必死になって母の目に訴えていたが、今では分かっていようがいまいが もはやそんなことはどうでもいいようになってきた。
 京都から2時間も離れた施設で生活している母にはそう度々会うことはできないが、1ヶ月に1、2回のペースで面会に行くようにしている。
 母に喜んでもらえればそれに越したことはないが、私自身とても勝手な人間なのでたとえそれほど喜ばなかったとしても、また、母から見て私の存在がはっきり分からなくても私はあまり気にならない。ただ、私自身が母の顔を見ることで納得できればそれだけで十分という思いである。
 施設が年に2、3回 入所者との交流会を催してくれるが、この“家族会”とよばれるものは 老人版参観日のようなものである。
 今日は午後2時から2時間かけて館内でミニ運動会と称して、座ったままで行う玉入れや魚釣りゲームの他に、車いすを押したり、手を引いたりして物を探す借り物競争まであり、母はおさげつきのかつらをかぶって記念撮影してもらい楽しそうであった。
 手を引いたり、手を取ったりして行うさまは、本当に保育所や幼稚園での乳児や幼児の運動会と同じような感じで、失敗しようが遅かろうが気にもならず、動作の全てがほほえましい限りである。
 そりゃ、私の子供(母にとっては孫)のことや、京都での出来事なども話してみたいが、意思疎通の可能な会話としてそれが叶わなかったとしても、こうして過ごす時間は何にもまして貴重であり、充実した時間であった。
 今年の春は施設内で転んで大腿骨を骨折し手術を受けたが、今では手をつなぐと何とか自力で歩くことができるまで回復した。

 私自身、毎日 時間に追われるような気ぜわしい生活をしているが、この施設の中だけは時間のまわり方が違うような気がする。これは私にとっては“非日常”と感じるからなのであろうが、母をはじめとし ここで生活するお年寄りや施設の職員の方々にとってはこれこそまさに“日常”であり、そこには一喜一憂のある日常生活が存在している。

 京都までの帰り道は連休最終日とあって大渋滞であったが、「やっぱし行ってよかった。誕生、育児、受験、就職、結婚・・・病気、けが・・・老後、介護・看病、死 と人生にはいろいろな局面があるが、人生は順送り とはよくいったもので誰もが通る道である。おかあはん、まだ元気でおれや。」とあと何年 生きることができるかは誰にも分らないが、もう少し笑顔の母を見に行きたいなと思いながら車を運転していた。
posted by ヒロイ at 15:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年10月01日

No.849:専門バカにならないためにも

「専門馬鹿(バカ)」とは
・ある限られた分野の事柄には精通しているが、それ以外の知識や社会的常識が欠けていること。また、その人。

 何で急にこんなことを言い出したのかというと、顧問先の方、あるいは顧問先以外の金融機関をはじめとする我々の業務に関わるいろいろな職種の方々と話をしている時、「廣井事務所は医療業界に強いですからね」と言われることがある。
 税理士事務所である以上、医療関連の以外の業種の顧問先もいくつもあるが、確かに我が事務所の顧問先の中で一番多い割合を占めるのは医療機関である。
 どんな事業でも強みの部分をさらに伸ばすというのは、事業を進めていったり あるいは 拡大する上では鉄則なのかもしれないが、一つの強みだけにこだわったり、追求するあまり 他が見えず逆に強みを発揮できないケースもある。
 特定の強み以外には興味がなかったり、目も向けないような“専門バカ”になってはいけないということであり、逆にそのことが弱みにもなりかねないという可能性がないわけではない。
 税理士業界では医療以外にも「相続に強い税理士」、「ITに詳しい税理士」等の広告をよく見かけるが、他にも関東周辺や信州、北海道には「農業に強い税理士」がいるのを聞いたことがあるし、「美容業界」、「建設業界」、「公的団体」に詳しい税理士というのも見聞きすることがある。
 そうそう京都ならではということでいうと、宗教法人(寺社)の顧問先をたくさんお持ちの税理士事務所もある
 税理士である以上、税務と会計のプロであることは当然のことであるが、限られた専門分野の強みだけに頼っていては、知識の範囲も限られてくるし、やはり他の分野のことも知ったり、比較することで 強みである部分が、更にレベルアップしてくるようにも思える。
 開業医を例にとると、耳鼻咽喉科のクリニックへ咳き込む患者が来た場合、その咳の原因は喉にあるだけでなく、当然のことながら肺や他の内臓の疾患が原因である場合もあるし、もしかすると精神的なストレスに起因していることも考えられる。
 こういった場合、咳の原因が自分の専門分野以外の要因で起こることも当然 頭に入れておかなければならないし、専門分野以外の知識や経験がどれだけあるのかでその診断結果は大きく変わってくるように思う。

 私の顧問先の60代のドクターで若い頃 すごく本を読み(ご本人は「読みあさって」と言われた)、小中学校の頃は学校の図書館にある本の大部分を読んでいたので、先生から「次どんな本が欲しい」と聞かれたこともあるとおっしゃっていた方がいる。
 この方と話をしているとその読まれた本というのが文学作品ばかりでなく、あらゆる分野に及んでいて、社会人になってからもその“癖”は続いているようであるし、「この経験は日常の診療にも生かされているなと思うことがある」とおっしゃったことが印象に残っている。
 あと、もう一人 別のドクターは、院長室に医学書と並んでここ数年間に読まれた医学書以外の本がところ狭しと積み上げられている。
 この方も専門分野はもちろんのことのこと、専門外の医療についても非常に詳しいし、これだけの読書量があるので医療以外の知識も相当なもので、私が面談した後、帰る時にはいつも 私自身が「新しい発見をした」、「得した」というような気持になってそのクリニックを後にする。
 こういったことが、この2つのクリニックに患者が溢れる要因であるのかどうかは分からないし、このことだけでクリニックの状況を判断するのは早計かもしれないが、どちらの方も話していて“人を納得させる力”があるなと思うことがある。
 こういった例を見ていると自分の税以外の知識の浅さにあらためて気づかされるし、なぜこれまでもっと探求心を持って生きてこなかったのか悔やまれるばかりである。
 ただ、人間なんていうのは自分のレベル、つまり身の丈に合った生き方しかできないので、今を一生懸命生きることで今後の人生 救われることも出てくるのではと思っている。

 話しがタイトルとは少し違う方向へ行ってしまったが、“専門”といわれる狭い分野の探求だけでなく、税を中心に据えながら、その周辺の知識や情報が提供できるよう 人間として幅が持てるようになることが必要なのであろう。
 私のように意志の弱い人間ってついつい楽しいことに行ってしまいがちだが、決して無理やり行動するのではなく、「やりたくなる」というのがまずは大事なんでしょう。
 今回あらためて思ったが、周りにすごい人がいるって ある意味恵まれていますよね、刺激があって・・。
posted by ヒロイ at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする