昨日(土曜日)午後からの結婚式だったので、直接式場に向かい 終わった後 夜だけ我が家に泊まりに来るとのことであったが、久しぶりに会う小中高それぞれの京都の友人も多かったようで、我が家に着いたのは夜中の2時半ごろだったようである。もちろん私は深い眠りについていたので来たことは知らなかったが・・。
長男は家庭もあるし、仕事もかなり忙しそうなので 京都に来るのは1、2年に1回程度であるが、今年は10月初旬に実家近くで行われた私の母(長男からみると祖母)の葬儀に参列したので その時には顔を合わせた。
ただ、東京から片道5時間かかるところを日帰りで、葬式、火葬場行きとバタバタしてしていたし、しかも4、5時間くらいの滞在時間であったので、「元気にしているか?」、「おお、まあな」というやり取りくらいでほとんど会話らしい会話はしないまま帰って行った。
今回は我が家に立ちより何とか一泊したので、今日の昼は事前に予約していた近くのお店に行き お昼は多少ゆっくりすることはできたが、遅くならないうちにということで2時過ぎには東京に帰って行った。
30を過ぎた子供と特に何が話したいわけでもなく、子供の方も取り立てて何かを話すわけでもないが、普段いない家族が家にいるというのは不思議と心が和むものである。しかもそれがいっしょに住んでいない子供ならなおさらである。
今回の私と長男の年齢と比較すると多少 年代的な組み合わせは違うが、今から10年程前、私が50代になり、今月亡くなった母がまだ70代だった頃、私が休日に実家を訪れた時、母がよく「あんたの顔を見ると元気が出るわ」とか、帰る頃になると、「暗なると危ないんで明るいうちにはよ帰り、毎日忙しいやろけど体には気をつけんとあかんで」と言っていたが、今日 私は当時の母と同じような心境になっていることに気付いた。
父は父で、病気を患ってからは多くの時間をベッドで過ごしていたが、私が実家を訪れ、帰る時には父が手を合わせて見送ってくれたことも思い出した。 父は喉頭がんで70歳くらいから声を失っていたので、なおさら態度で気持ちを伝えたかったのかもしれない。
今日の数時間のことは長男は特になんとも思っていなかっただろうけど、私のことを「マスオさん」と呼んでくれる京都好きの奥さんとまた来てくれることを今から楽しみにしている。
我々の年代になると親として子供から受ける対応が、過去において自分が子供として親に対して接してきたこととだぶるので何とも不思議な気持ちになってくるものである。 以前、このコーナーでも触れたような記憶があるが(Noまでは確認しませんが)人生って順送りということをつくづく感じてしまった。
私の場合、私も子供もいわゆる現役なので、お互い仕事をしている者としてゆっくり話がしたいなとも思ったりもしたが、まずは何はともあれ元気でいることが一番大事であることはどんな場合でも共通ののことである。
無理せず、無茶せず 仕事に励みたいものである。
でも現実に目をやると 一息つくなんてなかなかできそうもないけど・・。