2023年01月08日

No.813:年賀状について思うこと

 “年賀状じまい”という言葉があちこちで聞かれるようになってきている。
 この行為そのものには人によって様々な考えがあるので、私がここで個人的な意見を述べるつもりはないが、これに関していろいろな意見を聞くと 今後 年賀状のやり取りをする上で 考えないといけない点もたくさんあるな思った。

 私(事務所)の仕事用のものは、なかなかお目にかかれていない顧問先の方へのあいさつや 何かとお世話になった方に対してお礼の意味を兼ねて出しているというのが本当のところなので今までどおり出している。
 あと 家用というか、個人として出している年賀状は、一応 受け取られた相手の方にご迷惑にならないのか考えながら出すようにしているが、こればかしは相手様の本心はわからない。
 一年の中でも一番忙しい年末に年賀状の準備に時間をさくのは誰しも避けたいところなので、少しは楽をしたいとか、あるいは年賀状そのものにそれほど意義を感じない人は出さなくなっていくのであろう。
 出さない、出したくない人の気持ちもよくわかるのでこれはこれで各人の自由でいいと思う。
 今後は義務的に出していた人は出さなくなる、つまり“年賀状じまい”ということになるだろし、出したい人は自己満足組も含め 出し続けることになるのであろう。
 確かに中高年も含めたスマホの普及に伴いラインやメールでのやり取りで代用可能という声も聞くし、正月に帰省していた次男なんかは会社の同僚も先輩も住まいの最寄り駅は知っているけど 正式な住所は知らないと言っていたし、古くからの友人とて住所を知らないのであろう。

 年賀状を見て思いを馳せること自体、時代錯誤と言われかねないが、小学校の頃の友人から喪中はがきをもらうと、「遊びに行ったらいつもカルピスを入れてくれたあのおばちゃん 亡くなったのか」と懐かしく思ったし、同級生からの年賀状には、定年を迎えたことや孫と遊んでいること、まだまだ仕事を続ける様子などいろいろなことが書かれていて、同じ年代の生活ぶりを知ることができる。こういった話は参考になるだけでなく、刺激を受けるたり、励まされたりすることもある。
 年賀状は趣味とまでは言わないが、今後はなんだか一種の文化のようになっていくのかもしれない。
 その文化を引き継ぐのも引き継ぎないのも自由なように。

 こんなことを綴りながら、私が小学生だった50年前の光景を思い出したので少し紹介しておく。
 毎年12月になると、父と母は前の年に受け取った年賀状とこれから差し出す新しい年賀はがき、それに新しい筆ぺん2本を用意し、二人で手分けして宛名書きをしていた。裏面は近くの印刷屋さんに頼んでいたので書くのは表だけだったが。
 これって今から思えば年中行事のようなものであったが、人の心だけでなく、こういうことに時間を費やせるという点においても時間の流れも随分変わってきたな と思わざるを得ない。
 10年も経たないが、父が亡くなった時、実家にあった年賀状で連絡すべき人を割り出して、亡くなったことの連絡もしていな。
 家族葬が主流となりつつある今の時代には、こういった亡くなったりたタイミングでの急ぎの連絡も当然のことながら必要でなくなってきているが。

 私自身、今後 どうするかは決めていないが、無理せずにできる範囲で何とか続けていこうかな というのが 今の時点での考えである。
 一年後にはどう変わっているかわからないけど。

 考えすぎかもしれないが、こういった風潮も少なからずコロナの影響もあるのかも。
 まずは生きるために必要なことだけ きちっとやっていこうと考えのもとで、今や「以前に」とか「慣例として」というのは、気に掛けなくていい時代になっていってしまってるように思う。
 少しだけ寂しさは感じているがやむを得ない。時代はどんどん進んでいっているのだから。
posted by ヒロイ at 17:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする