2021年08月29日

No744:旅した気分

 人を採用するときの面接時に聞いてはいけないことの一つに本籍地や出生地というのがある。
 これは本人に責任がなく就職差別につながるおそれがあるからとのことで、当然 納得のいくものであるが、こういった採用面接ではなく、仕事で初対面の人の場合、話の流れでついつい出身地の話になることがある。
 特にクリニックの新規開業の支援で金融機関に提出する履歴書や経歴書を受け取る時に、「私、○○県の○○市出身なんです、ご存じですか?」とおっしゃる方もあり、その流れで地域の有名な観光地や名産品の話を熱く語られることもある。
 一般企業の経営者の方と話していても、「私の母校、今年も甲子園に出てるんですよ」とか、「テレビでも何回かとり上げられた有名なおそば屋さんがあるんです」という話で本題そっちのけで盛り上がったりすることもある。

 実は私は根っからの旅行好きだが、期日の差し迫った仕事を抱えることが多くなったことに加え、昨今のコロナ禍の状況が続く限り、私の楽しみは当分の間 かなえられそうにない。
 こんな中で最近 会った方は結構、京都や近畿圏以外の人も多く、過去の私の旅の思い出と照らし合わせたり、おいしいお店を教えてもらったりして、本来の仕事の話の合間に、わずかながらとはいえ旅行気分のかけらだけ味わうことができる。
 この2、3ヶ月でも、島根県、北海道、愛媛県、千葉県、長崎県など、いろいろな方から出身地や出身大学、それに過去の勤務地の楽しい話を聞かせていただり、県民性について、いわゆる京都人との違いについて話される方もある。
 その中には、今は実行に移せないが、いつかはきっと訪れてみたいなと思うような場所もいくつかあった。
 
 他には、家で休日にパラパラとめくっていた雑誌に、「東京のおいしいうなぎ屋さん」、「博多のラーメンはここで決まり」、「広島の中でもここのかきフライを逃すな」なんていうのを見て、今度いった時には必ず立ち寄るぞ といき込んではみるが、これとていつかなえられることやらという世の中になってしまっている。
 ここでは決して旅に行けないことに対する不満を言いたいのではなく、郷土料理を味わう以外にも、見たり聞いたりする“仮想旅行”を楽しむことも少しずつではあるが身に付けつつあるように思う。
 こんな旅の話をしていること自体、ひんしゅくかもしれないが、大変な世の中になればなるほど 心の中に少しの色合いの違う現実離れした部分も必要と思っているので 今回の話はお許しいただきたい。

 今のコロナの状況は、顧問先のドクターの話を聞くとかなりひっ迫しているケースや地域もあり、予断を許さない状況であるようだが、我々としてはここはひとまず一定の収束を迎えるまでいろいろな面において協力し、対応していくしかないのであろう。
 私事ではあるが、コロナのワクチン接種はワクチン不足による急なキャンセルもあったが、やっと今日の午前中に2回目の接種を終えることができ、少しほっとしている。

 明日はワクチンの予約の変更よりも早く予定が決まっていた仕事があるので、一応 出社するつもりでいるが、副反応については明日になってみないと分からないので、今 いろいろと考えず、少しは行動は控えつつも普段どおりの休日を過ごしている。

 さあ、明日 体調はどうなっているんでしょうね? ぶっ倒れそうになっていたりして・・・。
posted by ヒロイ at 13:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月22日

No743:謹慎処分という意味も知らないプロ野球の球団と選手・・情けない

【謹慎】とは、
1. 言動をひかえめにすること。
2. 一定期間、出勤や登校などを差し止める処罰。
3. 江戸時代、上級の武士に適用された名目上の刑で、門戸を閉じて昼間の出入りを禁じたもの。慎 (つつしみ) 。
*江戸時代から明治時代初期にかけて日本に存在した自由刑の一種で、一定期間外出を禁止されることである。転じて、活動をしばらく休止することをも指す。 1期につき30日間。
また、
【謹慎処分】とは、「規則や規約を破った人に、罰を加えること」 と書かれている。

 いきなりこんな出だしですみません。
 みなさまも私が何を言いたいのか少しは感づいていらっしゃる方もあるかと思うが、そうなんです プロ野球でこの間まで日本ハムに在籍していた中田翔選手のことです。
 中田選手は8月4日、エキシビションマッチのDeNA戦を前に、同僚選手への暴力行為が発覚し、無期限の出場停止処分を受けていたが、8月20日に巨人へ移籍し、すぐさま21日の試合から出場していた。そして 今日(22日)も出ている。
 訳わからんというか、巨人と中田選手は「謹慎」とか「謹慎処分」の言葉の意味も分からないくらいぼけているのかと情けなくなる。

 最近では芸能人やオリンピック選手も何かあると謹慎処分という、かなり痛い処分を受けているし、中には再起不能に近くなっている というか、軽々しき復帰した場合、世間がそう簡単には受け入れないという素地ができつつあるようにさえ思う。
 もちろん永久的に追放することがいいわけではないし、当然 一定の反省と更生を経て復帰した場合、それを良しするかどうかは本人ではなく、周りの人間であったり、世間が判断することであろう。
 こういった観点から考えても、更生しているかどうかも判別できないくらいの短い期間で復帰されも頭の中には ? ということしか浮かばない。

 私の中では 巨人軍、原監督、中田選手 「やっちまったね」と感じずにはいられないような愚行と思える。

 極刑である死刑をはじめ、罰を課すことについては、人それぞれに考え方の違いがあるにせよ、やはり人間ってすごく弱い生き物なので、罰を受けないために、罰せられないように行動を慎むことは誰にでもあるし、時にはそういった心のブレーキが必要な時もある。
 そういう意味において今回の罰を受けずに、あるいは罪を償わずに いきなり世間の前に出てくることがあっていいのだろうか。
 巨人が良識あるプロ野球の球団で、優れた才能を持つ中田選手を本当に救いたいのなら、「入団させましたが、今年は一切出場させずに 体も心のみっちり鍛え直して、来期には凄まじい選手になってグランドに立たせます」ぐらいの判断があってもいいように思うが。
 こんなこと言っている私って今の時代では古くて、ピントがずれているんですかね。

 でも、最後にもう一言だけ、「終わったな巨人も」。
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2021年08月15日

No742:他人からの親切ってうれしいもんです

 今年のお盆ほど お盆の感じがしない年はない。
 まだパラリンピックはあるとはいうものの国の内外から批判されたりあるいは注目される中、観る側も多少高揚感を抱いた東京オリンピックは幕を閉じた。
 その後、自分の生活もやっと通常に戻りそうだった矢先のこの長雨、何か気が乗らないままお盆へ突入し、カミさんの両親の墓参りをした以外はほとんど何もしないまま お盆は終わろうとしている。
 こんなご時世でどこにも出かけられないのでテレビで高校野球でもと思っていたが、こちらの方も開幕が例年より遅かったのに、さらに順延に次ぐ順延でやっと今日 大会第2日目という前代未聞のスケジュールとなっている。確か以前はお盆明けには決勝戦だったと思うが、こればっかしは人間の力ではどうしようもない。
 こんな気乗りのしない休日であるが、今日は先日、地下鉄の中でちょっとうれしいことがあったのでそのことに触れてみることにする。

 4、5日前、仕事で地下鉄に乗る機会があり、事務所から5分少々とはいえ地下鉄今出川駅まで歩くと少し汗ばんだが、そのままホームに下りると目の前に地下鉄が入ってきたので飛び乗った。
 空いていた座席に座り、すぐさまスマホでメールの確認をしたり、ニュースに目を通したりしていたが、体が熱くなっていたせいもあってか いつも以上に眼鏡がくもり、ポケットから取り出したハンカチで幾度となく眼鏡を拭いては画面を見、すぐさま またくもってくると、ハンカチで拭くということを何度か繰り返していたところ、向かいの席に座っていた70歳くらいの男性が「よかったらこれ使ってください。結構くもりはとれますよ。」と言って眼鏡のレンズくらいの大きさの薄い包みを渡された。
 突然のことだったので、今一つ何だかわからないまま、いただいたものを見ると”メガネクリーナー・・くもり止め”と書いてあり、少し間を置いた後、「ありがとうございます」と軽く頭を下げたところ、その男性もニコッとして頭を下げられた。
 地下鉄の中で席を譲ったり、空けてもらうことはあっても、何かをもらうなんていうことは今まで経験したことはない。
 最近 物騒な世の中なので見知らぬ人から物をもらうなんて、どちらかというと警戒しないといけないという少し悲しい社会になってきているが、今回はほんのちょっとしたことではあるが、ホッとするやり取りであった。
 実は私もマスクをしだしてから、メガネがよくくもるのでポケットに今回もらったものとよく似たくもり止めのペーパーを持っていて、この日もポケットに忍ばせていたが、この男性のさりげない行動に思わずお礼を言いながら受け取っていた。
 私が大きなカバンを抱えて、額から流れる汗を拭いていたので余計に目を引いたのかもしれないが、世の中が忘れかかっているような小さな親切を受けたことで、なんだかこの日はハッピーな日 という思いで一日を終えることができた。
 たまたま降りる駅もいっしょだったので、降り際に再度軽く会釈をしながら「すみませんでした」と言うと、その男性は「お互い暑い時は大変ですよねメガネをかけている者は。特にコロナになってからはマスクもありますしね。」と言った後、私とは逆の方向へ行かれたが、私は5mほど行って振り向くと、少し足が不自由なようで、足を引きずりながらホームをゆっくりと歩いておられた。
 その姿が私の頭に残り、その後 ここ数日の疲れも忘れたかのように、エスカレーターに並んでいる列を横目に自然と階段の方へ足が向かい軽快に?階段を昇っていた。
 ちょっとした親切でこれほど気持ちが変わることも不思議な気もするが、人間って所詮 ”気持ち次第”っていう単純な生き物なんだなと再認識した。
 ちょっとしたことが実行しづらい世の中になってきている時代でのこの日に受けた小さな親切は結構インパクトがあり、今日 みなさんに伝えておきたいなと思ったワンシーンでした。
 以前(昔)は、こんなこといくらでもあったのにねー。
posted by ヒロイ at 17:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月08日

No741:聞き流すことのできる能力

 先日来、五輪選手への誹謗中傷問題がとり上げられ話題になっているが、このことの一番の問題は攻める側と攻められる側があり、攻める側にはほとんどの場合、責任もないし、痛みなんて全く感じないという 攻める側にとって ただただ勝手に都合がいいという点であろう。
 これはまさにネット社会が作り出した問題であり、言った側の顔が見えず、ほとんどの場合 言いっぱなしで、立場が悪くなればすぐにでも雲隠れすることはいとも簡単にできてしまう。というか、その言いっぱなしの当事者が表に出てくることはまずない。

 また もう一つ問題と思われるのが、これに群がる者の多いこと多いこと。群がることで自分も社会の一グループを形成しているかのような錯覚に陥り、中には自分の立ち位置を美化しているような者もいる。
 私はこういったことには基本的には加わらないし、何かを検索していて たまに気に入った項目があれば、タイトルと1、2人目くらいまでは目を通すことはあってもそれ以上どんどん中に入り込んでいくことはない。だって、ほとんどが大したこと言ってないので。所詮 匿名で言うことだから・・・。

 私も一応、誰でも見れる所にこうして自分の意見を綴っているが、ほんの一部の人しか目を通してもらっていないからなのかどうかは別にして、今までこちらが気分を害するようなコメントがあったことは一度もない。
 私はまずは、いろいろなサイトを駆け巡ったり、検索したりするほど時間がないのと、本当に意見が聞きたいときには、この人 という限られた人と差しで話をし(電話、メールも含む)、意見を求めるようにしている。

 こんなことを考えている時、新聞の書籍案内欄でふと目にしたのが、【放っておく力】という神奈川県のお寺の住職が書いた本である。
 この本はまだ手にしていないし、中を読まずして本を紹介するのも気が引けるが、本の紹介欄を見るだけで 以下のようなうなずけるものが並んでいた。

 「いちいち気にしない。反応しない。関わらない。放っておく力で、仕事も人間関係もうまくいく。」
@ 「しかたのないこと」に心を注がない
A そっとしておく、という人間関係のコツ
B 「いい人」の仮面を外しましょう
C お世話や親切は“しっぱなし”でいい
D 後悔は、すべて“妄想”です
E 情報の“暴飲暴食”をやめる
F 「平均」を調べるべからず
G 極力、楽観的に考えるヒント
H ちょっとした失敗なんて“かすり傷”
I 「得意なこと」だけ頑張ればいい

 こんな見出しの中でも、@、E、G、Hなんて「そうそう」とうなずいてしまった。

 少し話がそれるかもしれないが、以前このコーナーで、『朝のテレビで占いは絶対に見ません』と言ったことがあったが、これは今でも実行している。
 「ふたご座の人は今日は運転に注意」と言われたからと言って、急に車での出張を取りやめにするわけにはいかないし、「ちょっとした一言で大きな代償を払うことになる」なんて朝から言われたからと言って、一日中無口でいられるわけがないし、私にとって朝の占いはストレス以外の何物でもない。最近は朝の占いどころか、雑誌も含め、占い欄があると目を背けながら次へ進めるようにしている。
 あと、私の周りで、「口コミサイト」というのをこまめにチェックしている人から、「あそこのランチはおいしいらしいよ」とか、「あのホテルの接客は・・・・で最低」というような話を耳にすることがあるが、これとて書き込んでいる人の責任や信ぴょう性なんて?がついていて、「ほんとかな」と思うこともある。
 自分が食事に行くときは、その店に行った人から直に聞いたことだけを信じてお店選びをするようにしている。

 最近はテレビに出ている多くの人が、何かを言うとすぐヤリ玉にあげられる傾向があるが、こんな状態が続くとことテレビのキャスターなんて怖くてやってられないだろうし、いつかは「今日の司会はロボットA君です」なんていう時代が来るかもしれない。

 最後に話を少し元に戻しておくが、責任もなく言いっぱなしができるSNSには問題があるが、こんなことになるのはある程度 予測がついていたので、こんな暇な人たちにつき合うという無駄な時間を過ごさないためにも 今日ここで掲げた「放っておく力」でも読んでみることにする。
 顔を出さない、出せない かわいそうな人たちに対抗するためにも。
posted by ヒロイ at 15:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月01日

No740 【再掲載・・No354:金メダルと銀メダル、そして銅メダルと4位の差  [2114年2月16日]】

 東京オリンピックも中盤に差し掛かる中、昨夜の陸上 男子100mは残念な結果に終わった。
 オリンピックも盛り上がりを見せているが、一方ではコロナの感染状況には歯止めがかからず、新規感染者数も多くの所で過去最多となっている。
 こんな中でのオリンピックの開催でいろいろな面においてデリケートな部分もあるので、ここでは今回の東京大会に触れたり、取り上げたりするのではなく、随分前のものではあるが、このコーナーでメダルの重みについて取り上げ、選手の心情について「そうだな」と思えるもののが見つかったので、下記に再掲載することにする。
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No354:金メダルと銀メダル、そして銅メダルと4位の差  [2114年2月16日]

 ソチでの冬季オリンピックもいよいよ終盤に差し掛かっているが、ここへきて日本選手も羽生選手の金メダルを筆頭にいくつかのメダルを獲得しだしてきている。
 各競技の結果を見ていて、オリンピックには程遠いが、私も多少なりともスポーツをかじっていた一人として、今回のタイトルに示した「金メダルと銀メダル」、「銅メダルと4位(メダルなし)」の差はとてつもなく大きな差であり、2位(銀メダル)あるいは4位になった者はとても悔しく、その違いを痛い程 感じていることがわかる。  
 テレビ局のキャスターや各新聞はこういった悔しい銀メダルや4位の選手について過大とも思えるくらい賞賛の言葉を並び立てるが、実は選手自身にとってはいくら何と褒められようともこの悔しさを埋められるものはどこにも見当たらないはずである。
 今回、女子モーグルで4位であった上村愛子選手に対して、“連続入賞、本当にお疲れさん”というような表現をしていたマスコミが多かったように思うが、本人にとっては悔やんでも悔やみきれないほど残念な4位であったに違いない
 ただ、この上村選手が一スポーツ選手としてだけではなく、人間的にも素晴らしと思ったのは、その悔しさ(ひょっとすると人生最大の悔しさだったかも?)を表に出すことなく、こんなコメントで締めくくっていたからであろう。
『オリンピックの思い出としては、いい思い出で終われると思っている。メダルはないが、頑張ってよかった。』
 応援していた者にとってはいっしょに泣きたいくらいの気持ちになったが、この大人のコメントで多少なりとも救われた気がした。
 ただ、滑り終わった後の『全部終わったときに、点も見ずに泣いていた。一瞬 メダルは獲れたかな、と思ったが また4番だったんだと・・・。』コメントを聞いて、本当はメダルが欲しかったんだろうなと思うと、各局のアナウンサーが「5大会連続入社は立派です」と褒めれば褒めるほど、見ている者にとっては痛々しくも感じられた。
 ただ、スポーツにしろ、勉強にしろ、そしてビジネスにしろ、この埋められなかった悔しさがあるからこのその後の人生、無駄にせずに生きていこうと、次なるステップへと歩み出していけるのではないのだろうか。
 ただのスポーツ好きの大人が言うにはとても偉そうな表現になってしまったが、こうして本音の部分も書くことによって、逆にその悔しさが埋められやしないかなとも思ったりもするのである。


 では、なぜ 選手は金と銀、そして銅と4位にこだわるのか。 それは、そこまでの道のりにおいてとてつもない努力をし、多くのものを犠牲にしてきた者は、その証となるものが欲しいということであろう。じゃあ銀メダルや4位は証にならないのかというとそうではないが、これはスポーツをやってきた者にとってはどうしても欲しい証である。
 私も高校時代 陸上をしていたが、見ていて一番むごいと思ったのは近畿大会の決勝において8人で争われるレースである。このうち全国大会に行けるのは6位までで この時の6位と7位にはとてつもない大きな差があり、これは3年間クラブ活動に打ち込んできた高校生にとってはある意味、“むごい差”でもある。 全国大会に出たことのあるのとないのとの差という・・・。

 話を少し角度を変えて捉えてみるが、
 今回のキャスターの中に2人の元女子オリンピック選手がいる。それはご存知の通りシドニーのマラソンで金メダルを獲った高橋尚子とトリノのフィギアスケートでこれまた金メダルを獲った荒川静香である(呼び捨てしてすみません)。
 こういった場面ではやはりメダリストではなく“金”メダリストに声がかかるんだなと、金メダルの威光と重みをまじまじと感じながら解説を聞いている。


 今回の羽生選手は相手も少しミスをするラッキーはあったものの、やはり最高の、しかもとびっきりの実力者であるがゆえに勝ち取れたものであろう。これが実力拮抗の状態であれば最後で逆転されていたようにも思う。
 そういう意味では金メダルを獲るには、運も必要かもしれないが、実力が誰も寄せ付けないくらいとび抜けている必要があるのであろう。いわゆる“断トツ抜きんでている”というやつである。
 オリンピックになると今でも思い出すが、高橋選手の鍛えられた走力(体力)と完璧なまでに計算されたレース運び、そして、一方 荒川選手のミスを探そうにも見つけられないくらいに最初から最後までこれまた完璧に滑りきったフリーの演技。 やはり、銀、銅のメダリストには申し訳ないが、金メダリストは完璧を貫いたものでないと手に入らない、とてつも重く、かつ、気の遠くなるような繊細な部分も備える必要があるのだろう。
 
 いろいろと偉そうなことを言ってしまったが、本当は我々一凡人にとってはオリンピックに出ることはとてつもなく偉大なことであり、スポーツをする者の中でもほんの一握りの選手しか手に入れることができない栄冠であることを忘れてはならない。
posted by ヒロイ at 09:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする