2021年07月25日

No739:ワンちゃんは正直者

 22日(木)から今日25日(日)まで事務所は暦どうり4連休である。
 ただ、22日は顧問先の院長がこの日しか時間がとれないということで、事務所の担当者と滋賀県の顧問先に医療法人の決算内容の説明に出向いた。
 世の中は連休なので高速道路が渋滞すると嫌だなと思っていたが、大した渋滞もなく比較的スムーズに移動できた。
 それ以外の日は少し残っていた宿題(仕事)を整理するくらいで、比較的に自由な時間を過ごした。
 そんな中でほぼ毎日、起きたらまず暑くなる前にと7時過ぎからぽぽたん(うちのワンちゃん)の散歩につき合っていたが、夏場はこの時間では遅い方で、こちらが公園や宝が池へ連れていく途中には、ワンちゃんの散歩から帰ってくる人と何人もすれ違った。
 普段は朝と夜それぞれ 少ししかいっしょにいる時間がないが、こういった休暇の時は常日頃と比べると長い時間いっしょにいることができる。ただ、こういったたまの休日だけいっしょにいる時間が長いからといって そうそう簡単に私になついてきてくれるものでもなく、普段も私が仕事から帰ってきた時は少し近寄ってきて“あいそ(愛想)”を振りまいてくれるが、それも ものの10秒程度でしばらくすると自分のお決まりの居場所に戻っていく。
 これがカミさんが出かけていて 帰ってくるとこんな簡単なあいさつではなく、そりゃすごい歓迎ぶりである。
 先日、カミさんが夕方まで出かけていて、私が家でいた時なんか、私と2人で静かに過ごしていたが、カミさんが帰ってくるとその喜びようなんて私の時の何倍、何十倍というこちらが焼きもちを焼いてしまうほどの手厚いお出迎えである。
 そばに寄っていき いきなりジャンプの連続、その後 別の部屋で後片付けしようとしても離れようとせず ずっと近くで見守るようにして寄り添っている。
 「これってうちの3人の子供の時といっしょやん」と昔を思い出しながら、悲しくなり少し落ち込んだりもしていた。
 いっしょにいる時間の長さも当然 影響しているだろうけど、ぽぽたんへの愛情の掛け方やその深さに比例しているのであろうか? ただ、残念ながらこれを逆転することはもはや不可能な状態である。
 先日、仕事が終わって8時半頃 お腹を空かして家に帰ると、ちょうどほぼ同時にカミさんとぽぽたんとが夕方? 夜?の散歩から帰ってきて、いっしょの家の中に入ったが、カミさんは迷うことなく、まずはぽぽたんの飲み物(冷たいやぎミルク)を準備し、間髪入れずに次は食事の準備をしている。 ワンちゃんの食事のはずなのに“チン!”という音とともにレンジに中から夕食の一部が出てくる。通常のワンちゃんフードのうえに少しだけのせる一品である。
 そうしてぽぽたんが晩ごはんを食べ出してから、私の食事の順番が回ってくるので、少しの間、私はこの流れの中で新聞でも読みながら、順番が来るのを待っている。この流れを?と思った時点で愛情不足なのだろ。
 ぽぽたんをこっちに振り向かせようと思っても こりゃカミさんには勝てんわ、と妙に納得しながら自分の晩ごはんをつついていた。

 子供が小さい時もそうだったけど、こちらの都合に合わせて遊ぶなんてあまりうれしくなかったのかもしれないし、場合によってはありがた迷惑な時もあったのかもしれない。
 子育てやワンちゃんの相手も常日頃から愛情を注がないと振り向いてくれない。仕事上では、相手の人は多少の損得勘定や俗にいう“愛想”の部分もあるのだろうが、こういった純粋な心を持った子供やワンちゃんは本当に正直にふるまってくるのでドキッとすることもしばしばある。

 今日は自分の愛情が足りないことを思い知らされたことをあえて綴ることで、カミさんと逆転まではいかなくとも 喜んで近づいてくれるよう少しはぽぽたんとの距離を縮めたいなと思った休日であった。
posted by ヒロイ at 15:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月18日

No738:みなさんなら遺言書にどんなことを書きますか?

 相続税の仕事をしていると遺言書というものに接する機会がある。
 最近、新聞や雑誌に特集が組まれていることもあるし、「いい遺言書の書き方」というようなタイトルの本も出ているが、まだまだ多くの人に遺言書というものが浸透しているかというと そうでもないというのが実情であろう。
 相続税の仕事の中では、数年前に書かれた公正証書遺言が開封された後 我々の手もとに届き、大きく揉めることがなければ、比較的 淡々とその内容に沿って申告書の作成を進めていくことになるが、当然のことながらそう簡単には収まらない場合もある。
 遺言書を書くことのメリットはいくつかあるが、このメリットや狙いについては個別にご相談いただくにして、ここでは私が仕事で接した“遺言書”というものについて、日頃 思っていることを述べさせていただくことにする。

 一般的には財産の分配をはじめとし、自分の死後のことを書き留めるということは決して気乗りのする話ではない。
 仕事をする上では、遺言書を書く人の書く時の心の中を読み取ることなんて必要がないことかもしれないが、税理士という職業からは少し離れて、当の本人(亡くなっていれば被相続人ということになる)が、どんな思いで書かれたのかを一個人としてふと考えることがある。
 相続税の申告業務の依頼がある場合、その亡くなられた被相続人を過去において知っていた人の場合もあれば、人づてで申告業務をご紹介いただくような場合には、亡くなった人がどういった人かも全く分からないし、その家族関係もどうだったのか知らないまま仕事に取り掛かることになる。
 ただ、生前を知らなかった人の場合でも、やはり財産の話をする中で、夫婦、親子、そして子供たち兄弟姉妹の関係が浮き彫りにされてくるし、これはこれでまるで人間模様そのもののような事例に遭遇することもある。
 生前にある程度、配偶者や子供たちに自分の意思を伝えていた人で、遺言書の内容もそれに近いものであればそう大きく揉めたりすることもないが、過去において何の意思表示もされていなかった人の場合には、大変な問題に発展することもある。
 以前にもあったが、子である4人の兄弟それぞれが、「お父さんはこう言っていた」と違う内容を言ってこられた場合である。
 最終的には4人で協議(相談)され、何とか収まったが 何とも後味が悪く、自分が思っていた相続分(取り分)よりも少なかった人は、最後まで損をしたという思いが残っていたように思う。
 ひと揉めもふた揉めもあったケースで、相続税の申告や納税も終えられた後、兄弟は法事でさえも一堂に会することはなく、墓参りさえもお互いに探りを入れて、同じ時間にかち合わないようにされるという徹底ぶりであったが、不幸にもこういった死後のことは亡くなった本人は見ることも聞くことも、そして注意することもできないというのが相続のむなしい部分である。

 これらのことから考えても 残ったものにどう思われるかは別にして、よくよく考えて自分の意思をしっかりと文書に残しておくことの意義はあるし、ある意味長く人生を歩んできた者の最後の大きな仕事なのかもしれない。
 揉める相続が悪いというわけではないが、相続税の納付と申告書の税務署への提出が無事終了した後、相続人が揃ったところで、「申告業務を無事終えていただきありがとうございました」と全員からお礼を言われたこともあるが、これこそ税理士冥利に尽きる瞬間であり、自分もこんな死に方がしたいなとふと思ったものである。

 年齢によっては今すぐ遺言書を書く必要がない人も多いかと思うが、後でみんながお墓の前で手を合わせてくれるようにするためには ということを頭の片隅に置いておけば いい遺言書が書けるのかなと考えたりもする。
 遺言書を書く、書かないは別にして、いずれにしても いい死に方ができるような人生を送りたいものである。
 最後はなんだか宗教家のようになってしまったが、相続の仕事は税金の計算以外に、死やさまざまな家族関係と向き合う機会に接することができるという意味においては、なかなか奥深い仕事である。

 今日出来上がった相続税申告書を目の前にして、ふと感じたことを綴るとこんな内容になってしまいました。
posted by ヒロイ at 20:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月11日

No737:市民権を得た感じの”無観客試合”

 東京オリンピックが無観客で何とか開催ということに落ち着いたのはみなさまもご存じのとおりであるが、ここにいたるまでオリンピック・パラリンピックの開催の是非、そして一応 開催されることが決まった後は観客を何人入れるのか人数の議論が始まり、最後の最後になって観客を入れるのか無観客にするのかの検討がなされた。
 最終的には札幌で開催されるマラソンと競歩以外は無観客での開催が決定したが、選手やその関係者という当事者でなく、開催国の一国民に過ぎない我々もここまでの経緯を傍で見ていてほとほと疲れたというのが本音である。
 私の周りの人は、私の感覚では約4割の人が反対派、約2割の人が賛成派、あと残りの4割の人が「どっちでもいいけどどうせするんでしょ」というある意味 無関心派と3つに分かれていたように思う。
 当初予定の2020年開催の前にはチケットが当たった人が私の周りにも何人かいたし、ある開業医の方は競技名は忘れたが、日曜日の夜の試合なので終わってからの新幹線がないため車で行って車で帰ってきて、月曜日の朝からは通常の診療を行うという強行スケジュールまで立てておられたが、しかし2020年の夏は・・・。
 今回 延期の分で、観客上限が1万人に決まった後の抽選で当たった人もいたが、先日、「大きな声では言えませんが、当たったんで行ってきます」と少し気まずそうにおっしゃていた。
 
 今でこそ“無観客”という言葉が一般的にも使われるようになったが、私がこの”無観客”というの初めて目の当たりににしたのは、2005年のサッカーワールドカップアジア最終予選の日本対北朝鮮の試合がである。
 当初 平壌で行われる予定であったが、テロの危険性もあるということで第三国であるタイのバンコクで行われたのを覚えている。
 この時はテレビで見ていたが、今まで見たことのない異様な雰囲気の中、通常の有観客の試合では今まで聞こえなかった選手同士の掛け声や監督(確かジーコ?)の日本語でない大声が響いていたのを覚えている。
 それが昨年の春のプロ野球やその後の多くのスポーツ大会ですっかり”無観客”も市民権を得て、おなじみになった感があるが、世界最大のスポーツイベントのひとつであるオリンピックが”無観客”で行われることはもちろん初めてであるし、多少不謹慎かもしれないが、もしかすると今後、二度とないかもしれない“無観客オリンピック”をしっかり観察しようと、試合結果とはまた違った点で興味を持つようになった。
 どんな雰囲気で競技が開催され、応援する者は本当に家にこもるのか? メディアはどこに陣取りどんな放送をするのか? 体操の着地が決まった後や重量挙げで挙げきった後、静かな中でもガッツポーズするのか? 団体競技の決勝戦で片方のチームにコロナ陽性者が数名出て、決勝戦が不戦勝で金メダルになるのか? 松岡修造は大声を張り上げずにいられるのか? 等々、なんだか本来の競技以外でどんなことが起こるのかということの方に関心がいってしまいそうである。
 世の中がコロナ禍での大会の是非を真剣で検討した結果 開催されることになった非常に責任の重い大会なのに、かなり不謹慎なことを言っているなと自分でも分かっているが、開催される以上はオリンピックの開催、そして進行がどんなものになるのか確かめておきたいという気になっている。

 それにしても日本人以外の選手って、本当に日本に来れて、時間どおりにきちんと移動ができ、本番の試合に出場できるんだろうか? そんなことも考えながら 全世界が心配するオリンピックがあと10日程で始まろうとしている。
 選手は無観客でどうしてモチベーションを高めていくのか、ここも見ておきたいところであるが、選手のみなさん あなたたちは何も悪くないので遠慮なく躍動してほしいものである。
 静かな静かな異様な雰囲気の中 どんな大会になるのやら?
posted by ヒロイ at 14:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月04日

No736:貴重な時間や人生を奪っていくコロナ

 昨日、久しぶりにカミさん宛に従姉からハガキが届いた。
 そこには、「お元気ですか」から始まり、ご主人がなかなか収まらないコロナ禍を捉えて、「この歳での2年間はすごいロスだと言っている」 というようなことが書かれており、コロナの影響によって悔しい思いをされていることがこちらにも伝わってきた。
 このご夫婦は60代後半(70代かも?)で、自宅の近くの介護施設にはご自身のお母様が入所されているが、コロナの影響もあり親の顔も半年以上も見ていないとのこと。
 また、この従姉の方は今まで年齢の割には比較的活発に行動されていたが、このコロナ禍ではご自身も人込みを避けるという観点から私鉄沿線に住みながら電車での外出はほとんどされてないようである。
 各年齢層によって時間の捉え方はさまざまであるが、歳をとっている方が「一年一年を大切に」とよく口にされるのを聞くことがあり、今回の手紙の内容と重なる部分がある。

 また、この方のように100歳手前のお母様が近くにいながら直の面談ができないということも、やむを得ないこととはいえ非常に心配でストレスのかかることであろう。

 あと もう一つ久しぶりという点では、昨日夕方 前の職場でいっしょに仕事をしていて、私よりずっと早く30年程前に独立開業をされた税理士さんから電話があった。
 この方は私が勤務していた税理士事務所では私の上司として在職されていて、当時は本当にお世話になった方で、私が独立する時もいろいろと相談にものってただいたという どちらかいうと恩師のような方である。
 この方とは私が開業した後は1年に1回、そして 数年前からは2年に1回くらいのペースで一杯飲みながら近況報告をしあう関係が続いていた。
 それがここ3、4年は何かの用事があって電話することはあっても、会って食事をしたり話をしたりする機会はなくなっていた。
 昨日の電話は急ぎの用件ではなかったが、「長いこと声も聞かんし、顔なんていつから見んかわからんけど、元気にしとるんか?」ということから始まり、「また落ち着いたらいっぺん顔見て話がしたいな。今の状況からするといつになるかはわからんけど。」 と電話から元気そうな声が聞こえた。

 この方は65歳以上なのでコロナワクチンの接種は2回目も終了したとおっしゃっていたが、私は接種の予約はできているが、まだ1回目の接種すら済んでいない状態である。
 「また」がいつのことになるのかは、2人とも?の付いたままではあるが、積もる話もあるのでコロナが落ち着いたら 会って話がしたいものである。
 最初のカミさんの従姉の話もあとの私の先輩との話も定期的に会っていたことが数年間飛んでしまっているが、その間も時間は過ぎて歳はとっていっているという、少しゾッとするような現実がある。

 今日は比較的年齢の高い人の話をしているが、10代や20代の若い人たちにしても、「俺の中3(高3)は何もできずに終わった」とか、「1年以上大学に行くこともなく、卒業式を迎えた」なんていう 思い出さえも作ることができないかわいそうな話も何度か耳にした。
 今後、多少なりとも世の中が落ち着いてきても今まで”定例”であったものが”定例”でなくなったり、ものによっては「必要でなくなった、あるいは必要でないことがわかったので今後は廃止」なんていうことがいくつも出てくるように思う。

 冒頭であった「2年間のロス」ではないが、本当に「時間を返せ」と多くの人が叫びたくなるくらいコロナ禍の状態は長く続いている。
 どんな状態であっても時間は過ぎ、歳をとっていくことは万人共通で誰しも抵抗のしようがないことなので、時間を大切しながらコロナに逆らわずに毎日を過ごしていくしかないのであろう。
 残念で悔しいことではあるが。
posted by ヒロイ at 16:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする