2020年08月30日

No695:大学生がいなくなった学生の街

 今から7年前の2013年に事務所を丸太町から現在の今出川に移転した。
 どちらも地下鉄の駅から数分の所にあり、駅も一駅違いであるが、今出川に移って丸太町とは随分 街の様子が違うなと思ったのを覚えている。
 丸太町は京都府庁、京都府警それに日赤病院など多くの公的機関があり いわゆる勤め人が多かったが、今出川は駅を上がった所に同志社大学があり、まずはその学生の多さに驚いた。
 大学があるので当然といえば当然のことであるが、何十年も前から大学は同じ場所にあるのに自分が通っていた40年近く前とは別の場所のような気がして妙に新鮮に感じたものである。
 お店も学生の胃袋を満たす牛丼やラーメンの店、おしゃべりするためのカフェ、それに学生にマンションを斡旋する不動産屋など学生街ならではの街の風景がそこにはあった。2013年には法学部や経済学部などの文系学部が京田辺キャンパスから今出川キャンパスへ移転となり、学生も8,000人が移ってきたので特に不動産屋が増えたという印象がある。
 その後、溢れんばかりの外国人観光客はホテルだけでなく近く民泊の利用者も多く、ただでさえ狭い今出川通の歩道部分はキャリーバッグを引きながら外国人が学生の合間を縫って歩くという凄まじい密度の濃い一角となっていた 。
 昨年の秋まではこれにレンタサイクル軍団、特にイスラム系の人が多かったのも記憶に新しい。
 ここに今から7、8ヶ月前の今出川の光景を紹介したが、今では外国人だけでなく学生の姿もほとんど消えてしまったのが今の今出川界隈である。
 コロナの緊急事態宣言の時はほとんどの店が休業状態であったし、解除後に開いた店もあるが なお閉まったままの店もある。
事務所の近くにあり、たまに利用していた定食屋(夜は居酒屋)も店が持ちこたえられないということで9月末で閉店されるようである。

 さてこんな状況ではあるが、いよいよ9月から大学は再開 というのが春先から夏までの大学側の見解であったようだが、現時点ではWebでの授業もかなり残しながらの再開で完全な再開には程遠いような感じである。
 同志社以上に学生数の多い立命館大学では学生のアルバイト先の減少で生活苦に陥り、学生の約1割が退学を考えているというニュースを目にしたが、受験を終え、念願かなって晴れて大学生になったにもかかわらず、大学には春以降一度も行くこともできず去らないといけないなんて、むごい、かわいそうというだけでなく日本の将来にも暗雲が立ち込めるような感じもするこの事態である。
 また、4回生も仮に1年間ほとんど大学に行かずして社会に放り出されることになれば、学生たちは果たして社会人としてやっていけるのだろうかとか、大学生になったばかりの新入生は友達と接することなく5ケ月近くが過ぎているが、まだ大学での友人は一人もできていないなんていう子もいるのかもしれない。特に地方から出てきた人は大学の授業やクラブに行って初めて新しい友達ができるものなのに・・・。私もそうだったし。
 我が家にはもう学生はいないが、もし自分の子供が大学に通っていたら、通常の授業も受けさせてもらえないのに高い授業料を払う側も何ともやりきれない気持ちになってしまうだろうなと 親の方の大学に対する想いも今までとは大きき違ってくるように思う。
 このコロナに関しては、まだまだ先が見通せないし、誰のせいでもないのであたる所がないが、一日も早く日常が戻ることを願わずにはいられない。
今では、「今出川、人が多過ぎるやん。」と不満を言っていたのが懐かしいというか、まるで1年以上も前のことのように思えてくるのも、今の状況に慣れてしまっているからなのかもしれない。
こんな学生街の光景が全国のいたるところで見受けられるのであろうが、非日常=異常が日常になりつつある日本、いや全世界はどうなっていくのであろうか。
全く想像すらできない今の世の中である。
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2020年08月23日

No694:悩まない経営者に明るい光は絶対に見えてこない

 今日も結構刺激の強いタイトルをつけてしまったが、このコロナ禍で多くの経営者が悩み苦しんでいる中、経営に対する姿勢や洞察力(今後を見据えた考え)、それに従業員に対する思いなどは平時より今のような厳しい環境の時の方がかえって経営者としての差が顕著にあらわれるように思う。

 コロナという問題で世間が騒ぎだしてから半年近くが経過していく中で、新型コロナウイルスの感染状況や世の中の動きが好転するのをじっと待っている人もいるし、今回は誰が悪いわけでもなく全世界がコロナに襲われたわけであるから、これを“運”で片付ける人もいる。
 こういった考えも決して間違ったり、歪んでいると言えるものではないが、「何とかならないものなのか」とか「何とか打てる手はないのか、少しでも可能性があれば。」と悩み抜いたうえでいろいろな対応を模索されている経営者もいる。
 最終的に解決に至らなくともこの“悩む”ことが非常に大事で、こんな時 “悩む”ことも経営者としての義務のひとつであろうし、それは決して無駄にはならず、悩んだ分だけ必ず何らかの形で報われるというか、悩んだ分だけ物事が前に進んでいっているように思う。
 この悩んだ人とそうでない人というのは、その差は1年も経てばこれまでの1年以上に大きな差になってくるであろうし、悩みなくして成長なんてあり得ない。
 こういう難しい局面では経営者は次の3つのことに注力することが、難局から這い上がれるポイントのように思う。

@専門的な技術を高めること
・商品のレベルアップ、医療技術の向上、料理の腕前等、自分属する分野の本道にもう一度磨きをかける。最終的には自分が誰よりも優先して選んでもらえるくらい。

A労務管理がきちんとできている
・従業員の協力なくしては何も成し遂げられないと思う。不満や不安がある従業員の意見も顔を背けずに真正面から向き合う。どんな重い話でも逃げては何の解決にもならない。

B事業に関連するあらゆることに関心を持つこと。
・これは好き嫌いを超えてまさにすべてのことに対して、面倒くさがらずにあらゆる情報に目を通し、吸収することである。この中に一つでも二つでも自分の経営に役に立つ話が潜んでいるはずである。

 一人の経営者が@ABの全て成し得るのはなかなか難しいが、できるかどうかということよりもこういったことから逃げない姿勢が大事であるということである。
 中にはこんながっかりするような発言をする経営者もいるので、自分自身の反省も含め掲げておくと(これを読んで気を悪くしている方もいるでしょう、私が実際に耳にした言葉ですから。もし気を悪くされた方がいらしたらお許しください。ごめんなさい)。

・「どうせうちなんかこんなもんでこれ以上伸びないよ。」
・「今の状況は何したっていっしょやし、動くだけ無駄だと思う。」
・「従業員なんていずれ辞めるんやし、必死に守っても仕方ない。」
・「しんどいのは経営者だけや。雇われている身は気楽でええな」

 物事をこのように決めつけてしまえば、開けられる道も開くはずがないが、本来 経営者は従業員が1人でも10人でも100人でもそして1万人であっても常に光のある方へ向かって模索することが求められている。

 経営者自身が自分の非や実力不足を感じたら、こんな時こそ それを素直に認め、次への道を見つけ、絶対に現実逃避をせずに向かっていくことが必要である。
 今、悩んでいない経営者なんてどこを探してもいないはず。悩まない人間には絶対に光は差しませんから。
 最後に経営者は絶対に人のせいにしてはならない。これはすべてにおける鉄則です。
 
 重い話ですが、これくらい真剣に考えないと目の前の難局はそう簡単に乗り越えられないと思います。
 もう一度言います、どんなことも絶対に避けてはなりません。
posted by ヒロイ at 23:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月16日

No693:私は受け入れられない この2つのこと

 7月下旬に吉村大阪府知事が、新型コロナウイルスが再び拡大しているので、5人以上での宴会や飲み会を控えるよう大阪府民へ要請した。
 それに前後して何でも二番煎じで自主性のない、いや各方面と協議を重ねた上で慎重に物事を進める京都府でも飲み会は2時間以内という時間の制限を設けたし、他の自治体でも騒がずに静かに食事をするよう求めるところがでてきた。
 今のご時世 仕方のない措置であるが、こういった制限を受けてまで食事やお酒を飲みに行かなければならないのかそこの辺りが私にはどうも理解できない。
 それと最近“オンライン(Web)飲み会”というのを耳にするのでどんなものかを確認してみると、自分のパソコンやスマホを通して遠く離れた友人たちと飲食や飲酒を楽しむことらしいが、正直何それ?と思えてくる。
 オンラインを使ってのWeb会議なら必要なことを電話よりもう少し臨場感をもって進められるというメリットは感じられるし、今では結婚式や葬式でもこういった形のものが出回りつつあるらしいが、これらは遠く離れていてもカメラの向こうの式典がLIVE(生)で見ることができるので、考え方によってはその中に入り込むというか遠目で眺めることはできるので、決して無意味なものではないように思う。
 また、最近では三密を避けるという観点から従業員の採用面接がWeb上で行われるケースもあるらしいが、これも移動や面談でのリスクを避けるという点ではやむを得ないような気もする。
 ただ、さすが飲み会は???と ?が3つ、?????と?が5つもいてしまうくらい頭に中でイメージができないし、本当に楽しいのかなと思ってしまう。
 先日、学生時代のクラブ仲間が大阪に集まり、当日大阪に行けない者(私もこの中の一人)はWebで参加という話がきていたが、私は全く気がのらなかったので「Webでの参加もできない」と事前に幹事に連絡しておいた。なんでわざわざ京都の自宅から大阪梅田の飲み会にパソコン上で参加しないといけないのか 訳が分からんしそんな無駄な時間を費やす気にもなれなかった(幹事さんごめんなさい)。気心の知れた仲間との飲み会というのは目の前の者とつまらぬ話も交えながらワイワイガヤガヤとすることに参加した意味があるようにも思うのだが・・「こいつ髪の毛薄くなったな」と意味のないことも考えながら・・。 みなさんこういった私の考えって古いでしょうか?
 こんな考えだから、最近は夜になるとゆっくりと一人で飲む酒にはまってしまっていて、ついつい規定以上に酒量が増え、飲んでいる延長線上でそのままベッドに入り、いつ寝たかもわからないという日が週のうち何日かある。ただ、これって酒飲みにとっては究極に贅沢な酒の飲み方なのかもしれまいが、体にはよくないのでしょうかね。

 話は全然変わるが、あともう一つ不思議というか、何これって? と思うことがある。
 同業者(税理士)が新聞や雑誌などの広告に登場したり、インタビュー受けた後、掲載用写真のポーズが腕を組んで仁王立ちしているのが目立つことである。特に若い税理士に。 
 「資産税に強い税理士〇〇〇〇」とか、「税務調査に強く安心できる税理士」とかという見出しで税理士を紹介していて、写真の多くがなぜか腕を組んだものであるが、これってわざわざ腕を組まないといけないのか といつも疑問に思うし、中にはこの税理士って本当に実績があってすごい奴(丁寧にいうとここは「人」というべきか)なんだろうかと真の実力をついつい疑ってしまう。
 というのも私の知っている尊敬できる数名の税理士は誰もがその人のことを実力があると認めているが、何かの機会に雑誌に紹介されるときは腕や手はごく自然に体の横に沿わしているだけである。
 こういった優れた税理士の格好(ポーズ)を見ているので、腕を組む税理士っていったいなんぼのもんなんと思ってしまう。中には本当に実力のある人もいるのですべてを否定しているわけではないですよ。
 ちなみに腕を組む人というのは一般的に威圧的に感じるし、勝ち気で頑固者というイメージがある反面、自分自身の内側は相手を警戒し、悪く言えば必要以上に自分を大きく見せたい人、あるいは見せなければならない人 という風にとらえられると思う。
 だから、何事も普通で自然なのが一番であるし、それが一番安心できると思っている。
 こんなことを言っている私もある方から「最近 偉そう」と言われ少しショックを受けたが、こうして口に出して言ってくれるうちならまだ軌道修正が可能だし、何とかなるのかなと勝手に思っている。
 裏を返せば、「あの税理士、偉そうにしとるし、何言っても無駄だし、口をきくのもいや」と言われた時には、この職業を続ける意味がなくなっているんだろうなとも思う。

 思っていることを好き勝手に綴ってしまいましが、今日はこの辺でお終いにしておきます。
 突然のような終了の仕方ですが、そろそろ体を休めることにします。明日は久しぶりの出勤ですので。
posted by ヒロイ at 23:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月10日

No692:いつ死んでもいい覚悟と100歳まで生きる覚悟

 今回も妙なタイトルをつけてしまったが、タイトルは書きたいことを綴り終わった後に内容を読みかえしてつける場合もあれば、内容についての細かなことは決まっていないが今日はこんなことを書いてみよう、あるいは書いてみたいなと思いをめぐらしながら まずタイトルを先に決めて そのタイトルに沿ったことをまとめ上げていく場合とタイトルをつけるタイミングは大きく分けてこの2つのパターンがある。
 ちなみに今回は後者で、まだ内容についてはまとめられてはいないが、このタイトルに関して今考えていることを綴ってみようと思ったので先にタイトルを決めた。
 今回のコロナ騒ぎの中、何名かの著名人がコロナの感染で亡くなったが、私がまず著名人として頭に浮かんだのだ、志村けん、岡江久美子、オムロンの立石社長の3人である。この人たちご本人はまさか自分がコロナで死ぬとは思ってもいなかっただろうし、周りの人も全く予期していなかったことであろう。
 亡くなる前にしておきたかったこと、言っておきたかったことを何も行動に移せなかったのが今回のコロナによる死であるが、今回のコロナによる死 以外にも、突然の事故や災害により亡くなった場合にも死の準備なんて、亡くなる本人も残された者も全くできていないのがほとんどであろう。
 こういった人たちの死を目の当たりにし、人生について考えてみると 少し大げさかもしれないがいつ死んでもいいという覚悟をもって生きていくことも我々 現在生きている者にも求められることなのであろう。
 とはいっても今生きている人間の多くが、余命○○年、あるいは○○ヶ月と宣告を受けていないであろうし、こんな場合、人生を終う準備なんて到底出来っこないことである。
 ただ、できるのは(少し現実的な話になるが)まだ子供が小さい場合にはこの子供たちが成人に達するまで親として何をしておくのかとか、歳をとった自分の親が健在な場合には、将来 誰がどこで面倒を見てくれるのか、また事業をしている方は自分の亡き後、会社はどうなり、そこで働く従業員はどうなるのかということも考えておかなければならないが、ここまで用意周到で亡くなった方は今までほとんど例がないというのが実態であろう。
 よく、「生命保険に入っているので、死んだら借金はチャラ(なしになり)」という人がいるが、確かに借金はチャラになるが、残された人の生活は更なる保険での保障がない限り、大きな意味でチャラとはいえないであろう。

 次に100歳まで生きる覚悟というのは、病気になったり、認知症になったりしても生がある限り生き続けなければならないということである。
 若いうち(主に50歳くらいまでか)は、「80歳まで生きたら十分」なんて言うことを多くの人が口にするが、これも思うように死にたい年齢で死ぬことができるなんてまず無理であろうし、元気な状態で80歳を迎えられたら あと5年くらいは生きていたいと思うのは人間として当然のことであろう。まして、配偶者、親、それにまだ未成年の子供がいるような場合であれば、少しでも長く生きていたいというか 長く生きていなければならないことだってあるかもしれない。
 先日、安楽死のことが新聞紙上を賑わしていたが、生きることも死ぬこともそう簡単にできることではないということである。
 今日のタイトルのように思いどおりには生きられないが、毎日の生活を悔いなく生きることこそ大事なのだろうなと思った次第である。

 今年の夏は多くの行事がなくなっているし、秋以降も同じ傾向は続くであろう。
 いつから始まったか分からない夏休み、帰省も墓参もままらなない盆休み、20年近く通い続けていた夏の甲子園、“大”の火が点かない大文字の送り火、そして秋の修学旅行も多くが中止か大幅な予定変更となりそうで滋賀県のある小学校は奈良までバスで行って、宿泊は滋賀県に戻って地元でお泊りらしい(県外泊なし)・・ただ これも取りやめになるかも。そして我が家でも東京にいる長男は仕事で動けないが、嫁だけがお盆に京都に行きたいと言っていたので、来る予定であったがこれも“東京の人”なので移動自粛のため取りやめになった。
 何かにつけ異例ずくめの夏であるが、実はもっと恐ろしいのがこれが異例でなく定例・慣例になってしまったときであろう
 お盆の帰省も墓参もなし。修学旅行も運動会もましてや入学式、卒業式、そして成人式もなし。最近ではお葬式も結婚式もなしと何もかもないないずくしであるが、果たしてこれらのことは今後 復活するのであろうか。
 今回の収束の見えないコロナ騒ぎでは予測すら立たない。

 話が本題からは横道にそれたが要はいつ何が起こるか分からないので、今をしっかり生きようということ。
 今日はお盆前の3連休中であったので遅くなってしまったし、いつも以上に長くなってしまったが、例年と違う夏、そしてお盆中に少しだけ人生そのものについて考えるのもいいのかもしれない。
 だって、いつもいろいろなことに追われながら、惰性で生きているというとこもあるでしょ。 私自身がそうなんですから・・・。
posted by ヒロイ at 01:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月02日

No691:経営に好みを持ち込まない

 経営者、中でも中小企業のトップはいろいろなことを自分ひとりの判断で決めることができる場面が多く、当事務所の顧問先もほとんどが中小企業であるので上記のような形態が当てはまる。
 夫婦や親子だけの親族経営であればそれほど気を使う必要はないが、親族以外の人を雇用している場合に独断で物事を決めると思わぬ問題に発展することもある。
 特に人の採用や評価について少しおかしいのではと思った人事を何度か目にしたことがある。
 もう少し掘り下げていうとトップの“お好み人事”が問題を引き起こすことが多いが、一体 この“お好み人事”の問題点はどこにあるか分かりますか?
 それは好き嫌いで人事評価をしたり、給与を決めるので、基本的には正当な評価ができていないと思われることがあるし、中には経営者の“好み”が露骨にあらわれていて「この評価なに?」と感じるケースもある。
 “好み”で判断することを全て否定するつもりはないが、この“好み”というのは優しい言葉を掛けてくれるというような自分にとって都合のいい態度で、経営者のとってだけの心地のよさを醸し出してくれることに他ならない。
 つまりここが問題で かつ 経営者が陥りやすいところである。
 そりゃ心地よく経営(運営)したいのは誰しもが望んでいるところではあるが、心地のよさだけで前の進められるほど経営は甘くないし、事業の対象は自分自身でなく、相手、つまりお客様であるので、経営者だけが心地よくなったところで何のプラスにもならないことは誰にでも分かることである。
 こんなことあたりまえのことであるが、なぜか多くの経営者はこの居心地のよさにぐらっとくるのである。裏を返せば経営者って結構 孤独だからついつい心地よさを求めてしまうものである。
 でも、どこを探しても完璧な人間なんていないわけであるから、自分の弱点を補ってくれたり、間違った方向へ行きそうな時に、「それって、ちょっとおかしいですよ」と指摘してくれることは非常に大切なことである。
 そういう意味において、経営者にとって自分のことを客観的に見てくれる人がそばにいるかどうかが企業が成長するか、一定のところで足踏みするのかの分かれ目のような気がする。

 人事評価に話を戻すが、本当に会社全体のことや会社の将来を考えて行動しているかどうかが査定のポイントであり、それは単純にお気に入りや心地よさを評価基準にするのとは大きく異なってくる。
 時には冷酷に、時には優しくするという硬軟織り交ぜてする評価こそが、正当な評価、つまり評価の神髄であり、それが会社経営のポイントといってもいいのであろう。
 このようなことを実行に移すことはなかなか難しいことではあるが、私の周りには成功事例だけでなく、まずいなと思えるもいくつもあるので、何とかいい事例をまねながら事務所経営をいい方向へ導いていきたいと思っている。
 当事務所にはいないが、経営者に甘くて優しい言葉を投げかけてきて、経営者の心地よくすることだけに長けている従業員、これを見抜き、厳しい評価を下せる経営者こそ成功する経営者ともいえるであろう。
 経営者はこういった目や心を持ち合わせないといけないのであろうが、逆に経営者自身がそこまで達しないところに経営を続けていく意味合いがあるようにも思うし、完成した経営、揺るがない経営なんて存在しないので、そこをいつまでも追及し続けることも経営の醍醐味でもある。
 偉そうなこと言っているが、要はまだまだすべきことは山ほどある、というのが今日の結論である。
 ということで、明日からもがんばります。
posted by ヒロイ at 23:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする