2020年07月26日

No690:多い休日、何して過ごす

 事務所は7月23日(木)から今日まで4連休である。
 コロナさえなければ、今頃 東京オリンピックの開会式も終わり、さあいよいよ各競技スタートということで日本中が熱狂の渦に包まれていたかと思うと、元アスリートとしては何ともやるせないというかこの状況が悔しくて仕方ないというのが今の心境である。
 この連休も本来であればオリンピック休暇であったはずが、梅雨のさなかの何のあてもないただ単に休みが4日間続いただけというものであった。

 私自身は溜まりに溜まっていた仕事を少しでも前に押し進めたかったので1日半は事務所でいくつかの確認作業を行っていた。
 また、今日は相続案件の最終段階の親族間での打ち合わせの日であったので、朝から親族が集まられるご自宅へ訪問した。
 細かな内容についてはここで触れるわけにはいかないが、亡くなられた方の奥様(80代後半)とその娘さん2人 計3人による遺産分割の話であったが、比較的和やかに揉めることもなく1時間ばかりで終了した。
 3人とも、『お父さんがしっか働いて育ててくれて、財産まで残してくれたなんて、本当にいいお父さんやったね。』と感謝の気持ちを口にされていた。
 相続税申告の業務を請け負った場合、当然のことながら 節税策を練り納税額が抑えることも重要であるが、親族間で揉めることなく遺産の分割が決まるということも非常に大事なことのように思う。
 そういう意味では今日はいい家族の形を見ることができ、なんだかすがすがしい気持ちになって帰ってきた。

 話を休日の過ごし方に戻すが、私が社会人になった頃は土曜日が隔週で休みだったし、今ほど休日もなかったので連休にでもなると必ず遊びの予定を入れていたし、3連休ともなるとどこかへ遠出したり、旅行の計画を立てたものである。
 そうそう当時は土曜日は午前中だけ仕事で、午後から休みという“半ドン”なんていう制度もあったが、今やこの“半ドン”なんていう言葉を知っている人は一定の年齢以上の限られた層なのであろう。
 現在のような休みが多いのを否定するつもりもないし、自分自身の体も週休二日に馴染んでしまっているが、実はこの非常に多い休日の過ごし方がいろいろな意味において重要なんだろうなと思えてくる。
 休養と趣味のような自分のやりたいこと、それに少しは仕事の役に立ち 自分を高めるための時間、この3つをバランスよく保てたらいいのだが、なかなか理想どうりにいかないのが私の休日の過ごし方である。
 ついつい休日明けにどっと押し寄せる仕事が気になってそのことに時間を費やしてしまうことが多いが、これから充実した人生に送るには仕事以外のことにも時間を費やすことが必要なのだろうし、現実には思いどおりにはいかなくてもこういう理想を持っているかどうかで人生の中身は随分違ってくるように思う。そういう意味では子供に時間をとられることがなくなった今こそ、自由に時間を使いたいものである。
 いくらあっても足りないのが時間であるが、もし暇で暇で仕方がないような毎日であれば それはある意味つまらない人生なんだろうし、多少イライラ、ドキドキしながら過ごす方が中身の濃い人生なのかもしれない。
 明日からは7月最終の週で、やり残したことを片付ける週になりそうなので、何とかいい形でキリをつけて8月を迎えられるようひとまずは目の前にあるスケジュールをこなしていきたいと思っている。
posted by ヒロイ at 21:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月20日

No689:「引退」とい言葉の重み

 「引退」という言葉を聞いてみなさんは何を考え、誰を想像しますか?
 スポーツ選手の引退は年齢からくる体力の衰えによるものがほとんであるが、中にはまだプレーできるのにと惜しまれながら引退した選手もある。
 前者はほぼ限界までプレーを続けたイチローや野村克也などが思い浮かぶし、後者では野球の江川投手やサッカーの中田英寿選手、それに最近ではレスリングの吉田沙保里や卓球の福原愛などが頭に浮かぶ。
 後の4選手なんかは周りから見ればまだできるのではと思えたが、本人にとっては体力だけでなく気力も含めて限界に達していたのだと思う。

 経営者の場合は、まずは自分が退くと思わない限り、なかなか他人から引導を渡され引退するというのは経営不振の元凶であったり、何か社会的に大きな問題を起こさない限りなかなかないというのが今の日本社会であろう。
 我々のような中小企業の経営者も引き際を考えないわけではないが、今まで「〇〇歳で引退するのが夢」とか、「〇〇歳以降は気ままな自由な生活を送りたい」と言ってきた人で宣言どおりに辞めた人はほとんどといっていいほどない。
 一度は代表取締役社長を他の人に譲りながらも再び社長に返り咲いたユニクロ(ファーストリテイリング)の柳井社長や社長の座は譲ったもののいつまでも自ら創業した会社の経営に君臨し続ける日本電産の永守会長の姿はすごさや鋭さだけでなく、どこか悲哀なものを感じるのは、どちらも70代にして自分が育て上げた会社を任せられる真の後継者が見つかっていないこともそう思える要因のひとつであろう。
 こんな姿を見ていると、後継者選びと引退ということの難しさをひしひしと感じてしまう。

 よく使う言葉で「まだ」と「もう」という言葉があるが、この両方の言葉を場面に応じてうまく使い分けられる人間がいい形での継承や引退を迎えることができるのではないかと考える。
 企業そのものの置かれている状況や社長の立ち位置によっては、「まだ、○○歳なのでもうひとがんばりしないと・・」と思うと同時に、曲面や状況が変われば、「もう、○○歳だから後進に道を譲らねば・・」と潔い退き方も必要となってくるであろう。

 私は「もう58歳」だが、「まだ58歳」でもある。 年齢からくる衰えもないわけではないが、価値を見出してもらえる年輪と言われる部分とをうまく絡ませながら日々生きていってこそ、必要な人間になれるのであろう。
 まだ、仕事は続ける以上は「〇〇歳で辞める」なんという言葉は、「何が何でも辞めるぞ」という気持ちが固まるまでは口にすべきでないと思っているし、すぐに「辞める」と口にする者ほど信頼できないように思ってしまう。

 実は以前 「辞める(引退する)」言ったはずのあの小室哲哉が芸能界に復帰するというニュースを先ほど耳にしたが、“ああいう人” もっと悪い言葉で言えば“あいつら”にとっては「引退宣言」って何の意味を持っていたのであろうかと思ってしまう。
 こんなのを見ていると辞める時は、「もう復帰はなし」と言い切れる時になってはじめて引退(退任)宣言をしたいものである。
 私は日本にはまだまだ“引き際の美学”があると思っている古い人間の一人かもしれないが、いつかやってくる“退く時”には、やはりいい退き方をしたいと思っている一経営者である。
 「引退」。これこそ人間性が一番表に出る、人生の集大成であるのではなかろか。
posted by ヒロイ at 00:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月12日

No688:コロナ後が見えない

 コロナ、コロナと騒いでいるが、ここにきてコロナによる異変に段々慣れてきた感じがする。
 集団での研修会、一定の以上の人数で行う食事会、無観客あるいは観客のほとんどいないスポーツイベント、バスや電車そして飛行機を利用しての団体旅行・・・など 今まで何の疑問もなく普通に行われてきたことが、今や常識的な行動ではなく、誰もがとらない行動となってきている。
 私の自宅から10分ほどのところにある京都コンサートホールも昨日ワンちゃんの散歩で前を通りかかったが人気もなく、ホール1Fの事務局だけ電気がついているし、松ヶ崎の自宅のそばにあるいくつかのチャペル付の結婚式場もここ数ヶ月人気はなくひっそりとしている。
 あと事務所の近くの同志社大学も門を閉ざし、一般の人は入構さえできなくなっているし、通常であれば2万人近くが通うはずだが、春以降 学生の姿をほとんど見かけない。
 他にも本来なら考えられない光景(風景)が今や当たり前になりつつあるし、何が日常なのか、今までどうだったのかということさえも忘れそうになってしまうくらいコロナ後の状態が段々 日常になりつつある。

 ここまで コロナに関しては、「夏には」とか、「秋には」なんて淡い期待を抱かなかったわけではないが、ここへきてもうそんな期待さえもしなくなった自分、そして世の中が目の前にある。
 こんな中で自分や家族そして事務所の将来や今後の生活や仕事のスタイルなど 先のことを考え出したらキリがないが、こうなったら自分なりに何らかの見通しを立て生き延びていくしかないのではと思うようになってきている。
 そのためにはいろいろな情報を漏らさずにインプットし、日々 いろいろなことに乗り遅れずに過ごしていくことが今まで以上に必要となってくるし、「今までは」とか「過去においては」なんていう概念も無意味なもののなってきつつある。
 今までは会社も自分も一定の幅の中に納まっていれば大きな失敗はなかったが、これからはこの一定の幅が今までの半分か3割くらいのものになり、人並みに生きていくのも一苦労である。
 ここへきて、まさかまさかの50代終盤からの残りの人生である。

 今日は抽象的な話が多く、何が言いたいか分かりにくい面もあったかもしれないが、何気なく生きているとひどい目に合うんじゃないかなという、非常に大きな恐怖心を抱かざるを得ない ということが言いたかったということである。

 本業の税務面においても税務署が行う日常業務の税務調査も長時間、面と向かっては行えないかもしれないし、確定申告時期の個別相談も今後 不可能になってくるかもしれない。
 本当に行政も今まで経験したことのない状況に立ち向かっていかなければならないが、果たして立ち向かって処理していけるのであろうか。
 今や何を考えても頭がくらくらするくらい、解決できないことばかりである。
 ちょっと立ち止まってゆっくり考えてみると、怖〜い世の中に向かっているとしか思えない今の状況である。
 「まずは目の前にあることから」 そんな当たり前のことを考えている自分である。
 では、明日からまた世の中が動き出します。どっちを向いてかはわかりませんが、何とかやっていきましょう 前を向いて。
posted by ヒロイ at 22:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月05日

No687:”肌感覚”で こんな時 どうするのがいいですか?

 新型コロナウイルスの感染拡大も少しは収まりつつあるのかなと思ったのも束の間、拡大とまではいかないにしても収束という状態が遠ざかっていくここ数日の報道を見ていて、他の多くの国と同様とはいえこの出口の見えない状況に苛立ちさえ感じてしまう毎日の感染者数の人数である。

 こんな状況が続く中、今までどおりの経営手法で会社やクリニックの運営が問題なくスムーズに進めていけているところは数少なく、営業時間の短縮や人員配置の見直しに始まり、販売する商品そのものの再検討であったり、クリニックにおいては診療方法の変更を余儀なくされているところも少なくない状況である。
 我が事務所も多くの税理士事務所同様、顧問先ごとに担当制をとっているので私自身が定期的に訪問できていない顧問先もあるが、ここ数ヶ月、あるいは1年近く話すらしてなかった経営者や院長から、直接 私の携帯に連絡が入ることがある。
 必要資金調達のための金融機関との交渉や提出書類の準備、あるいは今 話題となっている雇用調整助成金に絡む必要書類の依頼や準備については担当者サイドで説明し、順次 手配を進めているので問題ないが、私の所へ直接連絡があるのは休業(スタッフの間引き勤務を含む)するのかどうかとか、このタイミングでお金を借りておくべきかどうかなど、今後の経営にかかわる判断をする上での経営者の“肌感覚”としてどうなのかを聞きたいという問い合わせや確認が多いように思う。
 この“肌感覚”というのは経営をシミュレーション等の数字上の観点から捉えるだけでなく、まさに“肌で感じとれるもの”ということで使い方によっては非常に都合のいい言葉であり、まさにニュアンスでは?ということを含んだものともいえるであろう。
 例えば追加融資を受けたあと、当然のことながら資金繰りには余裕が生まれ、毎日 預金通帳の残高を心配しながらの経営からは一時的には脱却できるし、スタッフのことにしても勤務時間の短縮により支出金額を抑えることができ、こちらもある程度即効性が期待できる。
 ただ、この資金が経営者の心に余裕を持たせるだけにとどまらず、油断になりかねないという落とし穴がある。
 また、スタッフのことにしても経営者との関係において、深い信頼関係が築かれていたものが勤務時間を減らすことをスタッフに嘆願することによって関係が強固でなくなったり、将来の雇用関係にまで不安定な要因を作り出す可能性だってないわけではない。
 私への質問はこういった感覚的なものや過去において私が経験したことなどを聞き出したいという経営者の思惑が感じとれる。
 このように事務所の担当者を通り越して、私へ直接 質問がくるというのは、経営環境が悪化し、難しい時代に入っていることを物語っている。
 こんな話があった時には当然のことながら担当者に内緒にするのではなく、「私の意見を聞きたいということで、〇〇先生から直接 私の所へ連絡があった」と具体的な内容まで伝えるようにしているし、これは経営者と私だけで進められるものではないことは百も承知である。

 この春から夏にかけて何名かの経営者(院長)や経理を担当されている奥様から軽い愚痴として言われたのが、『がんばっている特定の人に特別の手当を新たに付けたり、コロナの中で頑張ってくれたことに報いて夏の賞与に特別手当を加算したのに、お礼や感謝の一言もないんですよ。』という話である。
 これってまさに「出してあげたのにどうして喜ばないの?」という経営者感覚であるし、この心情は確かに経営者にしかわからないかもしれないように思う。
 私もこういったスタッフに「喜んでほしい」という感覚がなかったわけではないが、今ではこういったことも段々分かってきて「口にはしないだけで、心の中ではきっと喜んでくれている」と捉えられるようになってきた。
 こういった境地になれるまでには10年近くかったが、もう今では相手がどう思おうと支払う自分が心地よく、かつ、満足すればそれでもいいのでは なんて思えるようになってきた。
 こういうことってやはり経営者感覚というものであり、経営者の方々はこういったことについて私に同意を求めたり、何らかの指針を示してほしいという思いから連絡されてくるのであろう。
 こんなことでよければいくらでも相談に乗ったり、話をしたりできますよ というのが私の気持ちである。
 こういったやりとりをする中でも一応 私にも存在価値があるのかなと少しだけ勝手に満足しながら今日の話は終わることにします。
 コロナと雨と暑さと戦いながらの大変な週になりそうですが、みなさん無理をせず毎日過ごしていきましょう。
 では。
posted by ヒロイ at 22:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする