2017年11月26日

No552:時代が変わると言葉も変わる

 我々が若い頃(幼少期〜20代くらいまで?)ほとんど使わなかった言葉であるが、私が最近よく耳にする言葉がいくつかある。
 「きもい」、「うざい」、「KY」なんかは、10年以上も前から若い世代の人たちが日常的に使うようになった言葉であるが、正式な場、例えば報道番組のキャスターが使うことはほとんどない。これらは、我々の世代が30〜40年前に使っていて今や死語となってしまった「ナウい」のようなものであまり気にならないが、最近、「全然・・・・・」という表現があちこちに横行していて、おじさんには気になって仕方がない。
 「全然大丈夫」、「この料理 全然おいしいです」、「全然 間に合います」、「全然いいですよ」等々 例を挙げだしたらきりがないが、それくらい日常的に【全然+(肯定的な言葉)】として使われている。
 私の記憶では、国語的には「全然・・・でない」というふうに非定的な場合にしか使ったことがなかったので違和感を感じてしまうが、今やちょっと硬めのテレビ番組(ニュース等の報道番組は除く)でも平然と使われている。
 気になったので調べてみると、国語的には私の思っている否定的表現だけでなく、肯定的表現に用いても間違いではないとのことなので、私の頭をもう少し柔らかくし、違和感なく聞き入れられるようにしないといけないのかもしれない。

 もう一つ、今の若い人たちがよく使う言葉として「ほぼほぼ」という言葉も、たぶん我々の世代の人は使い慣れていないのではなかろうか・
 「ほぼほぼ間違いありません」、「ほぼほぼ出来上がっています」とこの言葉も今や日常語になっているし、特にこの言葉を否定するつもりはないが、私がいまだに結論を出せていないのが、「ほぼ」と「ほぼほぼ」のどちらが終着点に近いのかという点である。
 使われている場面に出くわすと、なんとなく「ほぼ」より「ほぼほぼ」の方がより近くまで迫ってきているというような意味合いに感じるのだが、本当のところ使っている人の意識はどうなんだろう。
 これら例に挙げた二つの言葉は、ここまで日常的に使われていると私自身も段々気にならなくなってきているが、もう50年以上も生きてきた私は慣れていないこともあって、今まで口にしたことはほとんどないように思う。

 こんなことを言っていること自体がおじさんの極みなのかもしれないが、もう一つ ついでに言わせてもらうと(これは言葉づかいのことではないが)、電車などの人込みで若い男性からシャンプーか香水のいい匂いがすることはとてもさわやかではあるが、我々の世代では考えられにくいことであった。
 学生の頃、若い女性のこういった香りにクラクラしたもんだが、 もうこんなことを言っていること自体 世の終わりなのかもしれない。ごめんなさい、品がなさ過ぎて・・・。

 まあ、結論的には世の中の変化についていくことで精いっぱいであるが、古い頭を少しだけでも今の時代にマッチするように切り替えていかないといけないということであろう。 世の中から取り残されないためにも。
posted by ヒロイ at 11:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

No551:相続の仕事から考えた ”人の死”

 顧問先関連の方、それに個人的な知人からの紹介を含め 今年も何件かの相続税の申告業務の依頼があった。
 ご存知のように相続税の申告期限は相続開始日(死亡日)から10ヶ月以内となっているので、今年の春以降に亡くなられた方の申告は年をまたいで来年以降になる方も何人かいらっしゃる。
 相続の仕事をする上では、有利な形での分割方法や相続税額を少しでも抑えた申告を導き出すことが重要な仕事であるが、それ以外にも次の世代の資産の分配や残された相続人の今後の生活についても十二分に配慮したうえで結論を出すことも求められている。
 このように相続の仕事の依頼があると、ついつい相続税額や遺産の分割の方へ関心がいってしまうが、今回は相続の仕事を通して”死”そのものについて考えてみることにする。

 この世に 生を受けることと人生の終焉は自分では選択できないと言われているが、その中でも”死”というものについてしっかり準備ができたり、覚悟ができている人はほとんどいないように思う。
 今年 相続の仕事で依頼のあった分だけでも様々な死がある。
 40代のご主人が単身赴任先で脳梗塞により突然亡くなられたケース、日常生活には困らない程度(軽度)とはいえ少し障害のある40代のお子さんを一人残されて亡くなられた男性(奥様は既に他界)、80代後半から90代にかけての年齢で一応 平均寿命を超えられた上で亡くなられた方などいろいろな形の”死”というものに触れる機会があった。
 今までの私の人生においても、小学校の4年生の時、同級生の女の子が白血病で亡くなったり、友人の兄弟があの御巣鷹山で墜落した日航ジャンボ機に搭乗していたケースなど 今 あらためて考えただけでも胸が張り裂けそうな死は結構周りにも存在している。
 こうして考えてみると、人間は思った年齢で希望通りの死に方ができるかというと、そんなことはほとんどないということが分かる。
 認知症の人には失礼な言い方かもしれないが、認知症も重度になってくると、人間の死というものさえ理解できないようになってくる。
 自分自身の”死”がどんな形で訪れてくるのか考えると少し怖い気もするが、これこそ誰しもが避けて通れない道であることは百も承知している。
 一定の年齢以上になってくると 死への準備はしないといけないのであろうが、それよりも毎日、必死になって生きていくことの方が大事であろうし、こうして脇目も振らずに過ごすことは、死と真剣に向き合うことを避けたいという本能から起きている行動なのかもしれない。


 なんだか、話があちこちに飛んでまとまらなくなってしまったが、相続の仕事をする上で、その亡くなられた人が突然の死であっても、長年 床に伏しておられた結果の老衰に近いような死であったとしても、その亡くなられた方の想いを少しだけでも汲みながら相続の仕事を進めていきたいし、そうすることが亡くなられた方(被相続人)にとっても、残された相続人にとっても無念さが和らげられるのではないかなと思う。
 
 「頼られる税理士」。まだまだ奥の深い言葉であることにあらためて気付かされた1年でもあった。
posted by ヒロイ at 20:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

No550:勘がいい というのはまさに”人間力”そのもの

 当事務所の顧問先の中で多くを占める中小企業の経営者や開業医の方々は、事業を立ち上げて まず目指すべきところは、事業を軌道に乗せるということであろう。
 我々も事業を立ち上げられてから3年くらいまでの顧問先の方々に対しては毎月の税務・経営指導の他に、いかに儲けるか、また いかに従業員がやりがいを見い出しながら事業に貢献してくれる形を創りあげるのかということのアドバイスをするように心がけている。
 ただ、経営が安定し、一定の段階までくると どの経営者も次なる目標に向かって事業活動(医院経営も含む)を考えていかなければならないが、この第二段、かっこよく言うと”セカンドステージ”というものこそ一人ひとり違いが出てくるものでる。
 どういうことか いくつかのセカンドステージに対する思いを掲げてみると、 
 
〇もっともっとお金儲けをして、一日も早く借金を返し、その後とことんお金を貯めたい人
〇設備を充実させたり、事業所をもっといい場所に移して、さらに集客力を高めていきたい人
〇自分自身の資金に一定のメドがたてば、いっしょに頑張ってきた従業員に還元したい人
〇車をはじめとし、自分がどうしても手に入れたかった念願の物を購入したり、やりたかった趣味にお金をかける人
〇子供や奥さんのためにひたすらお金をつぎ込む人(必要に迫られて)

 等々、経営者が共通の目標を持つ起業時とは違って、いわゆる”セカンドステージ”こそ、別の観点からみると税理士の腕の見せどころでもある。
 この時に一番気をつけないといけないのは、自分の担当先が先述のどのパターンの人かを見極めることが大事であることは言うまでもない。そのためには こちらにいかに腹を割って話をしてくれるかどうかということがポイントになるのだが、そのためには本当に話したい人間なのかどうかによると思う。
 いくら、「なんでも相談してくださいよ」と言ってみても、こいつならきっと力になってくれると思わない限り何でも話そうという気にはならないであろう。また、別々の者に同じ話をしたとしても、勘のいい者とそうでない者とでは、話の捉え方や話の裏側、それに心の中を読む力には大きな差があるのも事実である。
 そういう意味において我々の仕事は、問題を解決する能力以前に問題点や悩み事を察知する能力が非常に重要であるということはお分かりいただけるであろう。

 この”勘がいい”というのは一見、生まれつき持っているもの(天性)のように思いがちであるが、私は決してそうでないと思う。
 私の周りの人間を見ていると、”勘のいい”人は常日頃からあらゆる方面にアンテナを張り巡らせ、頭の中に何パターンもの回答を想定しながら人と話をしている。これって、社会人として仕事をする上で、どんな専門的な知識よりも必要とされるもので、かつ、人によってすごく差の出る まさしく “人間力”そのものでないのかなと思ってしまう。
 我々の仕事はそういう意味において”人間力”を競う仕事である、また、そうであるからこそやりがいを見出せる 終着点のない仕事といえるであろう。
 こんなことを考えていると、ますます気の休まる時間のない毎日になりそうである。

posted by ヒロイ at 20:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月05日

No549:おかあはん、元気でおれや

 11月3日から今日(11月5日)まで事務所は3連休であった。
 最初の2日間は宝が池公園で汗を流したあと、じっくり時間をかけて確認したい書類に目を通すために事務所に出向いてはいたが、それ以外の時間は家で日頃から読みたかった本やなかなか読み返すことのできなかったセミナーのレジュメの再読に時間を割くことができ、仕事のある日とは違って時間を気にせずにいろいろなことに取り組めた。

 3日と4日は兄夫婦が空き家になった実家のそうじや台風被害の後片付けに行ってくれていたので、今日くらいは私も と思って85歳の母が入っている施設を訪ねた。
 連休最終日の5日はその施設で“家族会”という催しがあり、実家の近くに嫁いでいる姉を誘って、二人で同じ町にあるその施設へと向かった。
 母は姉のことはおぼろげながらも顔を覚えていそうであったが、私のことは目の前の当人が自分の息子の“増生”であると分かっているのかどうかは少しあやしい部分があった。 以前は、私自身『これが増生やで。』と自分のことを指さして必死になって母の目に訴えていたが、今では分かっていようがいまいが もはやそんなことはどうでもいいようになってきた。
 京都から2時間も離れた施設で生活している母にはそう度々会うことはできないが、1ヶ月に1、2回のペースで面会に行くようにしている。母に喜んでもらえればそれに越したことはないが、私自身とても勝手な人間なのでたとえそれほど喜ばなかったとしても、また、母から見て私の存在がはっきり分からなくても私はあまり気にならない。ただ、私自身が母の顔を見ることで納得できればそれだけで十分という思いである。
 施設が年に2、3回 入所者と交流会を催してくれるが、この“家族会”とよばれるものは 老人版参観日のようなものである。
 今日は午後2時から2時間かけて館内でミニ運動会と称して、座ったままで行う玉入れや魚釣りゲームの他に、車いすを押したり、手を引いたりして物を探す借り物競争まであり、母はおさげつきのかつらをかぶって記念撮影してもらい楽しそうであった。
 手を引いたり、手を取ったりして行うさまは、本当に保育所や幼稚園での乳児や幼児の運動会と同じような感じで、失敗しようが遅かろうが気にもならず、動作の全てがほほえましい限りである。
 そりゃ、私の子供(母にとっては孫)のことや、京都での出来事なども話してみたいが、意思疎通の可能な会話としてそれが叶わなかったとしても、こうして過ごす時間は何にもまして貴重であり、充実した時間であった。
 今年の春は施設内で転んで大腿骨を骨折し手術を受けたが、今では手をつなぐと何とか自力で歩くことができるまで回復した。

 私自身、毎日 時間に追われるような気ぜわしい生活をしているが、この施設の中だけは時間のまわり方が違うような気がする。これは私にとっては“非日常”と感じるからなのであろうが、母をはじめとし ここで生活するお年寄りや施設の職員の方々にとってはこれこそまさに“日常”であり、そこには一喜一憂のある日常生活が存在している。

 京都までの帰り道は連休最終日とあって大渋滞であったが、「やっぱし行ってよかった。誕生、育児、受験、就職、結婚・・・病気、けが・・・老後、介護・看病、死 と人生にはいろいろな局面があるが、人生は順送り とはよくいったもので誰もが通る道である。おかあはん、まだ元気でおれや。」とあと何年 生きることができるかは誰にも分らないが、もう少し笑顔の母を見に行きたいなと思いながら車を運転していた。
posted by ヒロイ at 22:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする